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それも職種のようなものだと、思うようになった

 

先日、気のおけない女ともだちふたりとランチをしていたときのことだ。

 

「それ、“女”として会ってんの?」

 

出会い自体はあるんだよね、というAちゃんに対してのBちゃんの返しである。するどい指摘に、食べていたタッカンマリー韓国料理、あたたまりますーを吹き出す勢いで笑ってしまった。そもそも社会的な「ひと」として会っているのか、それとも「女」として会っているのか。そのスタートによって確かに結果は変わる気がするが、その境目をあやつるのはあまりに難しい。とくに仕事周辺で異性と会うときには、いっそう。こちらが「ひと」として対峙しているのに「女」としてみられる居心地の悪さったらないし、こちらがひそかに「女」として会っているのに「ひと」として扱われる(が、もちろん文句は言えない)そこはかとないむなしさはもうどうしようもない。

 

女、ひと、役割のバランスがとれているか」というのが、わたしが思うしあわせの要素のひとつなのだが、まぁ、はっきり言ってむずかしい。なぜなら、それは本人の主観によるものだし、主観なんて状況や気分でコロコロ変わるものだから。それに女性の場合、「母」という役割ができた途端、そのバランス難易度が一気に上がる気もするし(気もする、というのはわたしは子どもがいないからです)。

 

☆☆☆☆

 

と、これまでずっとそんなことを考えていたのだが、最近、ちょっと風向きが変わってきた。わたしのなかの風向きが。なぜなら、「ママ」とか「母」も役割のひとつなら、言ってしまえば「職種」のようなものなんではないかと思うようになったから。

 

ドライすぎるだろうか?けれど、営業や販売、事務に士業、はたまたアーティストだったり学校の先生だったりと、「職種」に向き不向きがあるように、本来、「母」業にも向き不向きがあって当然なんではないかしら。にもかかわらず、みんなが何となく共有している王道な/理想な/あるべき「母」像は何だかとっても画一的で、まじめなひとほどそれに自分を合わせていこうとするし、周りもそれを期待する。そりゃあ、プレッシャーにもなるだろうし、できないひとがいて当然だろう。「ロールモデル」ということばがわたしはあまり好きではないが、メディアや映画のなかできらめく素敵な母親の何千倍もの「ロールモデルにはなり得ない、でも子どもを生んでなんとか育てた母たち」はたくさんいるはずで、それらを知るほうがなんぼか参考になると思う。

 

子どもを生み、育てることに無責任になれと言ってるわけではない。けれど、理想の「母」になろうとがんばろうとするより、みんな「自分」ができる、自分に合った「母」業を確立していくしかないし、それでもうパーフェクトにいいのだと思う。自分と自分の母でさえ個性が違うのだから、あなたの思うお手本と同じようにできなくたっていいのだ。

 

そして「母」という役割を持ってないわたしたち。わたしたちは、世のなかの「母」というものに自分の理想や都合を投影して過剰に反応するのはもうやめようね。たしか昨年だったか、とある女性タレントが「週に1度はベビーシッターに子どもを預けて夫とデートしたい、男と女に戻りたい」的なことを言ってたたかれていたけれど、そう言っているあなたの「母」だって、その役割以前に「ひと」であり「女」なのだよ。気づいてた?

 

おかあさんたちがそれぞれ自分に合った「母」業を確立できるように応援してあげること、そして彼女たちができないことは社会でカバーしてあげること。「3世代同居支援」とかよりも、よほど大事なことだと思うのだけど。

彼女の横顔

 

そのときのわたしはなんだかとても参っていて、ずっと訊きたくて、でも訊けないと思っていた質問をたまらず電話口の向こうにいる母にぶつけた。

 

「おかあさんって、おとうさんのこと愛してたの?」

 

そのとき間髪入れずに母から返ってきたことばを、わたしはきっと一生忘れないだろう。

 

「愛してたよ、いまでも大好きなんだよ」

 

ーだけど、考えかたが違ったり、わかり合えなかったりでストレスがたまっちゃうんだけど。いまでも好きなんだよ。

 

・・・なんだ・・・。

 

そりゃあ、なんだかんだともう結婚して30年以上一緒にいるわけだし、夫婦のことは例え親でも外からはわからないことくらいわかってるし、でも、こんな質問をしたら「うーん、わからない」とか返ってくると思っていた。勝手に。

 

なんだ・・・愛してたんだ・・・。

 

わたしたち親子は生粋の日本人で、愛情表現が上手ではなくて、成長過程でもいまでも、家族のあいだで愛してるよなんてことばが交わされたことはない。

 

でも、なんだ、愛してたんだ・・・。

 

なーんだ!!

 

母本人から聞いたわけじゃないのに、わたしは自分たち姉妹がいるから別れられないとか、わたしたちがいたから苦労したんじゃないかとか、そういうことを思っていた。またもや、勝手に。

 

なんだ、愛してたんだ・・・。

 

泣きながらわたしは、自分がこんなにも、そのひとことを欲していたことに驚いていた。訊きたくて、聞きたくて、でも怖くて訊けなかったことー。

 

ーおかあさんは、おとうさんと出逢ってこのひとの子どもを生みたいと思ったんだよ。それに自分の育った家が嫌だったから、早く自分の家庭を持ちたかったの。だから、大好きなひとの子どもを2人も生めて、おかあさん、夢が叶ったんだよ。

 

泣き笑いしながらわたしは母に言った。なんだ、おかあさん、パッションのひとだったんだね。情熱で結婚したんだね。

 

「そうだよ、じゃなかったら、小姑3人もいて姑と同居の末っ子長男のとこになんてお嫁にきてないよー!」

 

笑いながら母はこたえた。

 

母は、わたしの母は、娘が思う以上に強いひとで、じつは情熱のひとで、恋と夢をどちらも叶えたひとだったのだ。

 

自分のカラダの一部分、小さくて、でもとても冷たくて固くなっていたある部分が、すーっと溶けていくようだった。なーんだ。それは拍子抜けしたような、あきれて笑ってしまうような。ついこないだどん底まで落ち込んでいた友人が、あっけらかんと持ち直した様子をみて肩を軽くぶちながらこう言うときの気分。なんだもう、心配して損したよー。

 

それは、例えるならわたしの存在それ自体を全肯定してもらったような感覚だった。愛し合ったふたりのあいだに生まれた、そう肚から感じられることがこんなにも我が身を軽くするなんて。

 

いま、母はまだ50代、そしてわたしは30代だ。きっとこの10年くらいが、お互いを「守る」もしくは「守られる」役割から自由な状態で、相手を知ることのできるいい時期だろう。それは、ひとりの大人として。おかあさん、と呼ばれる役割を持った彼女ではなく。

 

そうなのだ。わたしは、まだまだ「ひと」としての彼女を知らない。「母」というラベルをとったときの彼女の横顔を、これからもっと発見していきたいと思う。

「好きなことにしている」、と「本当に好き」は違うのだ

 

昨年の晩秋、思い立って身の回りの細々したものをイチから買いそろえた。もともと使っていたものがある上でのことなので、買いそろえた、というより一新した、というほうが日本語としては正しいかもしれない。

 

インテリアや食器類にさほどこだわりがないわたしは、いままでなんとなく食器は白でまとめていてーそこに引き出ものでもらった、”ベストではないけどワーストでもない”食器たちがまざるー、それは、雑誌や本やスタイルブックの写真から、「おぉ〜、素敵な暮らしって感じ!」とインスパイアされて揃えはじめたのが発端だった。そこには「シンプルに暮らす」とか「スタイリッシュ」とか、”オシャレ生活”への憧憬もあったように思うし、色んな色、柄を取り入れてなおかつおしゃれに暮らすなんて自分には難しすぎる、とはなから諦めていたフシもある。

 

けれど、久しぶりに「さぁ、本当に自分の好きな食器を買ってみよう」と思って出向いたお店でわたしが選んだのは、なんとまじりけなく真っ赤な丸いプレートと、赤みがかったオレンジのマグカップーしかもスマイルマークがついているーだった。

 

おい、どうした、と思った。おいどうした、わたし。

 

家に帰って冷静に考えてみるに、わたしはたしかにこういうカラフルでキッチュなものが好きだということだった。その傾向はときどきチョロりと発揮されて、なんてことはない文房具ーペンやハサミ、そして愛してやまないポストカードーでついこうした「カラフル&キッチュ」なものを買っていることがある。何より家にある白いお皿たちの存在を一切無視したときに出てきた選択肢がこの「赤いプレート」と「オレンジのマグ」だったことが自分でも想定外だった。

 

☆☆☆☆

 

「こういう生活がしたい」「こんなひとになりたい」という像を思い浮かべて、そこから逆算して洋服を買う。スタイルを決める。身の回りのものをそろえる。女性にはままあることだと思う。わたしもそうだったし、それは「なりたい自分」をつくっていくプロセスのようでたいそう楽しいことだった。

 

けれどその「スタイル」に固執してしまうと、日々のなかで本当は刻一刻と変わっている心の動きを「なかったこと」にしてしまう作用もあるのだとこのとき気づいた。「好きなことにしている」ものと「その瞬間瞬間、本当に好きなもの」は違うのに、「スタイル」に合わせてモノを買う。選ぶ。何より恐ろしいのは、そんな小さな「好き」をないがしろにしていると、際限なく感性のアンテナが弱っていくということだ。自分の「好き」や「嫌い」、「やりたい」「やりたくない」の感覚が鈍り、果てには何かにつけ「どっちでもいい」と言い出す。「とにかく好きなものに囲まれて暮らしたい!」と発作的に思って買ったプレートとマグを前に、あぁ、最近のわたし、そんな投げやりな感じだったな、としんみり思った。

 

シンプルな暮らしやスタイリッシュな暮らしも憧れるけれど、そうか、いまのわたしは「カラフル」で「キッチュ」なものがが欲しかったんだね、そんなものに囲まれて暮らしたかったんだね。そんな気持ちを「なかったこと」にしててごめんよ、と自分にそっと謝った次第です。