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【VOL.33】ひとを愛し、そして愛されますように

 

洞窟のなかには、祭壇のイエスの磔刑像以外にも大小さまざまな像が並んでいた。パリのマドレーヌ寺院で観たマグダラのマリア像を彷彿とさせる「天使に召されるマグダラのマリア像」。2人の天使に囲まれ、いままさに天を見つめるマグダラのマリアの美しいこと―。

 

わたしは知らぬうちに唇を噛み締め、ひとつひとつの像を全身で確かめるように観ていた。五感でこのすべてを記憶できるように。忘れないように。

 

―聖母マリアとマグダラのマリア。思いがけずテーマを持ったこの旅が、いま終わりに近づいているのを感じていた。

 

☆☆☆☆

 

祭壇の裏手には小さな階段があり、訪問者を下へと誘う。手すりにつかまりながら恐る恐る降りると(それにしてもわたしは階段をくだるのが苦手だ)、そこは大きな岩肌に隠れるように「改悛するマグダラのマリア像」が待っていた。

 

訪れたひとたちが捧げたローソクの灯りに照らされながら、左手にはロザリオを持ち、顏は苦悶の表情にゆがみ下を向いている。

 

―どんな罪を犯したというの?

 

海辺の街サン・マリー・ドゥ・ラ・メールを後にし、南仏の地で布教をかさね、この洞窟で33年間祈りと瞑想の日々を過ごしたという彼女に、わたしは心のなかで語りかけた。かつて奔放に生きたこと、贅と快楽に溺れたことが罪だったというのだろうか?

 

―けれどあなたが犯したというそれは、本当に罪だったの?

 

かつては神と一体化する儀式と捉えられていたこともある性の営みは、いったいいつのまに罪深いものとなり、その罪が女性にきせられたのだろう。

 

☆☆☆☆

 

階段をあがり、わたしはまたベンチにひとり腰を下ろした。ここで瞑想を重ねたというマグダラのマリアにならい、深呼吸して目を閉じようとしたそのとき、神父さまがひとりの男性を連れて洞窟へと入ってきた。

 

ふたりは祭壇よこ、譜面台のようなものがある場所までいくと、並んで小さな本を開く。バイブルだろうか。神父さまが何か指示をし、ふたりは静かに歌いはじめた。

 

ミサのときに聞いた説教と同じものだろうか、ときどき深くお辞儀のような仕草をしながら、メロディはつづく。彼は服装こそ一般の参拝者と変わらないけれど、どこかの教会の神父さまなのだろうか。完璧にそろったふたりの声に耳を傾けながら、わたしはこの場を独り占めできることにそっと感謝した。

 

―もしも天使の歌があるなら、きっとこんな感じなんだろう。

 

始まったときと同じように唐突にメロディは終わり、ふたりは握手を交わして洞窟の入り口へと向かう。後方のベンチに座っていたわたしに目を留めた神父さまが、やさしく労るように笑ってみせた。わたしが相変わらずポロポロと泣いていたのも、きっと見えていただろう。

 

―大丈夫です。

 

わたしも笑顔を返し、持っていたハンカチでぎゅっと涙をふいた。サン・マリー・ドゥ・ラ・メールのサラの教会で、家族連れのなかのマダムが泣いているわたしに同じように視線を送ってくれたことを思い出していた。

 

―あぁ、こんな瞬間があるからだ。

 

ひと筋の光が、わたしの胸にすっと入り込む。

 

違うところを数えればキリがない。わかりあえない領域のほうが多いかもしれない。けれど生まれた場所や肌の色、言葉や信条、たとえ全てが違ったとしても、目の前で涙を流すひとをみたら心を寄せずにはいられない、そんなところにわたしはいつだって人間の希望をみるのだ。日々の人間関係に悩むとき、刻々と飛び込んでくる世界のニュースに声を失うとき、理解し合えない膨大な領域を前に無力感を感じることがあっても、わたしが人間への信頼そのものを諦めずにいられるのは、きっとこんな瞬間があるからなんだ。

 

この旅のなかでわたしを助けてくれた、たくさんの笑顔が脳裏をよぎる。

 

ゆっくりとベンチから立ち上がり入り口へと向かう。外からの風が、涙のあとをさっと乾かす。一瞬、洞窟のなかを振り返り、そのまま一気に広場への階段を駆け下りた。

 

―一切の愛。

 

あぁ、愛してたんだなぁ。マグダラのマリアはただ、ひとりの女性としてイエスを愛していたんだ。

 

―一切の愛。

 

ピエタ像の横に並び、山麓の景色を眺め息を吸い込んだそのときだ。どこからかまたことばの波がやってきてわたしを捕まえた。慌てて小さなノートを取り出し、降りてきたことばを書きなぐる。長い。取りこぼそうないようにと必死でペンを走らせる。

 

☆☆☆☆

(以下はそのときメモを走らせた文章そのままです)

わたしたちは聖人なんかではない

罪も犯すし、欲だってある

ひとを欺こうとすることもあるし、少しだっていい思いをしたいと思うこともある

 

それでも、

 

それでもなお自らのうちの良心の炎は消えず、

誰かを愛し愛されたいと願い、

 

愛するよろこびに心も体もふるわせ、

ちっぽけな自分をそれでも誰かの役に立てたいと思い、

 

笑い、

涙し、

 

そうして生きることそのものが神さまからの贈り物にほかならない

 

だから目の前のひとを愛しなさい

 

どんな想いであってもあなたの心のうちに芽生えたなら、

それを抱擁しなさい

 

歌いなさい

よろこびをすべて

 

踊りなさい

人生を謳歌せよ

 

恋をしなさい

それがたとえ一瞬のものであっても

 

愛しなさい

人生は愛そのものだから

 

愛しなさい

心と体すべてをつかって

 

愛せよ

 

光となれ

 

・・・世界中の女性すべてがひとを愛し、そして愛されますように

 

☆☆☆☆

 

サント・ボームの風が山麓から吹き抜けわたしの髪をばさばさと乱した。突き動かされるように手を合わせ、目を閉じ祈りを捧げる。

 

この世界に存在した、すべての女性たちに。

 

時を越えてわたしに連なる、すべての祖母、そして母たちに。

 

いまこのわたしが知るすべての女性と、顏もみたことのない世界中の女性たちに。

 

ひとを愛したすべてのひとに。

 

「自我」を越えた先にあるものが、いまほんの一瞬だけ見えた気がした。

 

わたしは彼女で、彼女はわたしなのだ。

 

それはたとえ、どんなに違う個性や人格を持っていたとしても。
わたしはわたしというひとりの人間であると同時に、この世界に存在した、そしていま存在しているすべての人間そのものでもあるのだ。

 

―わたしが、みんなのためにできることはありますか?

 

手を合わせたまま、胸の内でそっと誰かに―誰だというのだろう?―訊ねた。

 

―学問と癒しの手

 

―え?

 

―そのふたつの橋渡しができるひと

 

ゆっくりと目をあけ合わせていた手を下し、眼下の景色を眺める。

 

聞いてしまった、と思った。

 

聞いてしまった。

 

もうあとには戻れない。

【VOL.32】ピエタ

 

洞窟への入り口の前には小さな広場があり、山の上からの景色を一望できる場所には、そんな絶景に背を向けるように洞窟側を向いたピエタ像が置かれていた。

 

十字架から下ろされたイエスを膝にかかえ、空を見上げて嘆き悲しむ聖母マリア。そしてイエスの身に顏をうずめるマグダラのマリア―。

 

―悲しい。

 

止める間もなくみるみるうちにあふれた涙が、ほおをつたってハラハラと落ちた。

 

―悲しい。

 

深い深い深い哀しみが足元からやってきて、一瞬のうちに全身を浸す。まるでこの体のどこかにある感情の蓋が大きく開ききったかのようだ。わたしはもう動けない。

 

―悲しい・・・

 

―悲しい・・・

 

―悲しい・・・

 

―悲しい・・・

 

―悲しい・・・

 

―悲しい・・・

 

―悲しい・・・

 

この哀しみはいったい誰のものなのだろう?

 

―悲しい・・・

 

―悲しい・・・

 

―悲しい・・・

 

―悲しい・・・

 

―悲しい・・・

 

この涙はいったい誰のものなのだろう?

 

泣きながら、それでも頭の一部分が妙に冷静に動いていた。
この涙はわたしの涙じゃない。この涙は―。

 

深い哀しみと絶望の怒りが嵐のように体を突き抜ける。唐突にやってきた確信が胸をつく。

 

この涙は、すべての女性の涙だ。

 

ひとを愛したすべての女性の涙だ。

 

愛するひとを―恋人を、子どもを、大切なひとを、あらがえない力によって失いつづけてきたすべての女性の涙だ。

 

―どうして生んでは奪われないといけない?

 

男たちがもっともらしく語る抽象的で大きな何かより、いつもただ目の前の愛する存在を守りたかった女たち。

 

わたしたちはこれからもこれを続けなければいけないのだろうか?

 

―どうして?どうしてまだ苦しもうとするのですか?

わたしたちがもう背負ったのに―。

 

はっと振り返る。

 

洞窟のなかではミサが行われている。

 

マグダラのマリアはそこにいる。

 

☆☆☆☆

 

神父さまのまるで歌のように節をつけた説教―いや、あれは本当に歌そのものだった―を頭をたれてきく人々。ところどころ、みなそれを同じように復唱する。歌うように。メロディを持って。みなそれぞれ山歩きの格好をしているところが普通の教会に集まるひとびととは違うけれど、その真剣なようすと美しいメロディに心打たれる。

 

洞窟のなかは薄暗く、ロウソクの灯りとステンドグラスを通して差し込む光が神秘的な空間をいっそうこの世離れした雰囲気にしていた。正面にはイエスの磔刑像、そして足元にひざまずくマグダラのマリア像。ほかにもいくつかのマグダラのマリア像が配置され、通常の教会と同じようにベンチが並んでいる。

 

ミサの邪魔にならないよう、洞窟のなかのいちばん後ろのベンチにひとり静かに腰をおろした。ここでもわたしは真剣な信徒たちに交じって静かに号泣しているヘンなひとだ。せめて周囲にバレないように目をハンカチで押さえて下を向く。

 

美しく厳粛なミサが終わり、一斉にひとが立つ。記念写真をとる家族。ゆっくりと洞窟内を見てまわる老夫婦。正面のイエスの磔刑像の下に並び、笑顔で写真を撮るまだ30代とおぼしき夫婦と5人(!)の小さな子どもたちをぼーっと眺めながら、何かがぽっとわたしのなかの感覚をつかまえた。それを、それを言葉に変換するとするなら―。

 

―あぁ、わたし、子ども欲しいな。

 

それはなぜか諦念のようだった。あらがってあらがって見ないようにしてきた、全力で逃げてきたものがいま不意打ちでわたしをの右腕を捕まえる。わたしは諦めたようにそちらを向いていう。あぁ、追いついてきたんだね―。

 

これまでどうしても、子どもを持つということを前向きに考えられずにきた。理由は挙げればキリがない。だから、結婚して、さぁ次のステップとばかりに何の疑問も持たず(・・・と、いうようにわたしには見える)子どもを生んでいくひとたちのことが本当にわからなかった。対立したいわけじゃない。否定したいわけでももちろんない。ただ、心底不思議だった。どうしてだろうと思っていた。どうして彼女たちは自然にそれができて、わたしはできないんだろう。わたしはおかしいの?

 

けれどそんなわたしも、34歳という年齢のこと、そしてもうずいぶん前から子どもが欲しいと言っていた相手のこと、色々なことを考えたとき「そろそろ」と重い腰をあげる気になっていた。旅に出ると決めた理由のひとつだって、もし子どもができたらこんな気ままなひとり旅なんてしばらくはできないと思ったからだ。

 

でも、あくまでそれらすべては「頭」で考えた結論だったのだと気づく。

 

―わたし、いま初めて「心」で子どもが欲しいって思った。

 

生む性である女性の、深い哀しみに触れたからだろうか。わたしのなかの女性性が、その哀しみの深さと同じくらいに膨大な愛情を見つけた。ほかでもない、この自分のなかに。

 

そこには世界中の哀しみと、世界中の愛があった。

 

―どうなっちゃうんだろう、わたし。

 

フラフラと立ち上がって洞窟のなかを進む。とにかくすべての像を見てみよう。また不思議なことばがわたしの体を通って降りてくるなら、きっとこれから必要なことをわたしに教えてくれる。

 

ふと振り返って入り口の外に見えるピエタ像を確かめる。

 

ピエタ(Pietà) 、その意味はたしか、哀しみと、慈悲―。

 

【vol.31】王の道

 

身を隠す木陰もないなか太陽が容赦なく降り注ぐ平原のなかの道を1-2kmほど歩いただろうか、ようやく入山口まで辿り着く。ここからが本格的に洞窟への道だ。

 

「さて、と・・・」

 

目の前で、道が二手に別れていた。洞窟までは、古くからある整備されていない険しい道と、歴代のフランス王たちが洞窟へと巡礼するためにと整備された「王の道」、2通りの登山道があるという。この地を訪れたすべてのひとが、ここでそのどちらかの道を選んで登っていくのだ。

 

―どうしよう、どっちが古くからの道だっけ?

 

事前にインターネットで情報を仕入れていたわたしは、ここにきてすっかり左右どちらがより険しい昔からの道なのか、どちらが登りやすい「王の道」なのかを忘れてしまっていた。

 

―あー、しまったな。完全に忘れちゃった。

 

山登りにはまるで自信がないけれど、せっかくだからこの際、険しいほうの道を登ってみたいと思っていた。王様用にお膳立てされたきれいな道なんかじゃない、古くからの巡礼者が登った道。もしかしたらマグダラのマリアも登ったかもしれない道。

 

ふと右手に伸びる道のほうをみると、少し先に軽装の老夫婦がゆっくりゆっくり歩いていく姿が見える。靴も街歩き用のものだ。

 

一方、左の道に目をやると、両手にスティックを持ち、山歩き用のシューズにリュックを担いだ中年のカップルがみえた。服装も完全にアウトドア仕様。

 

―ということは、左のほうが険しい道かな。

 

こころもとない気持ちで、左の道に向かう。

 

☆☆☆☆

 

ざっざっざっざっ・・・。

 

自分が小石と落ち葉を踏みしめる音、時折風が木々の葉をゆらす音、鳥の声だけが耳に響く。静寂とは決して何も聞こえないことではないんだな、と自然の生む音を聞きながら思う。

 

登山道の脇の名前も知らない小さな白い花に目をとめ、ときおりまぶたに日光浴をさせてあげようと木々のあいまから差し込む光に顏をあげ目を閉じる。ざくざく道を登りながら、これは確かに普段のわたしの生活にはないくらいハードな道だけれど、と思いはじめた。

 

―でもこれ、「王の道」じゃないの・・・?

 

事前に調べていたようなけもの道ではないし、息はあがるけれど手をつかってのぼるような局面もない。

 

―でもあの重装備のカップルも登ってたし。。

 

ゆっくり登って20分ほど経った頃だろうか。整備された美しいわき水飲み場を発見して、疑惑は確信に変わる。わ、わたし、「王の道」登ってる!

 

せっかくだったのに!ラクな道を選んでしまった!!―。自分でも少し驚くほどにショックを受け、そうしてショックを受ける自分があまりに滑稽だと思った。

 

―あぁ、わたし、これとまったく同じことを人生でもしてきてる。

 

ひとりごとが、妙にクールな頭をよぎる。

 

最後に得られる結果は同じなのに、本当はきれいに塗装された道をすいすい行ったっていいのに、わざわざ自分で大変な道のほうを選ぶ。そしてその途上でひぃひぃつらがっているのだ。なぜって?だってそのほうが、がんばった感じがするから。だってそのほうが、手にしたものの価値が高い気がするから。だってそのほうが、えらい気がするから―。

 

とぼとぼと歩きながら思った。イタい、イタすぎる。

 

何かのために避けられない苦労をするのとはわけが違う。こんなの、完全に個人の趣味としての苦労じゃないか。だって選べるんだもの。なのに自分でそれを選んだということに気づいてすらいない。そしてそれが当たり前となると、ラクな道を選ぶことができなくなるのだ。悪いことをしている気がして。自分にはそんな資格がない気して。

 

何かがおかしい。

 

でもいまのわたしにはそれを正す方法がわからない。

 

☆☆☆☆

 

冷たい湧き水でハンカチを濡らし、おでこにあてた。ところどころ降り注ぐ太陽の光で思ったより暑い。

 

「王の道」とはいえ、途中、標識のようなものはほとんどない。ただひとり黙々と山を登り続けていると、上から30代後半くらいの背の高いお父さんと5歳くらいの双子の女の子が手をつないで降りてきた。女の子たちは手に木の棒をもって前後にゆらしながら、何か一生懸命おしゃべりをしている。3人とも同じプラチナブロンドの髪がきらきらと輝いていた。

 

わぁ、あんな小さな子でも登れるんだ。

 

“Bonjour!”

 

あいさつをかわしてすれ違ったあと、胸のなかがざわざわしている自分に気づく。なんだろう、なんで泣きたくなってるんだろう。

 

胸に生じた疑問をそのままにしてまた黙々と登る。

 

☆☆☆☆

 

ふもとから登って45分ほど経っただろうか、“Lieu de silence”(沈黙の場所)という標識が見えた。聖域に入るのだ。上を見上げると、岩肌の横に小さな修道院が見える。もうすぐだ。

 

“マグダラのマリアの聖域”

 

大きな看板に迎えられた先には、岩肌に沿って整えられた150段の階段が見える。ふもとで2つに別れた道も、ここからはひとつになるのだ。さすがに息があがった最後に、この階段を見せられるのはきつい。イエスが十字架を背負って歩いたゴルゴダの丘を模したという、階段―。

 

それでも1歩1歩登り、階段も終盤にかかると―。

 

ここまで登ってきた者を出迎えるように岩と木戸でできた小さな門があった。そのちょうど真上、険しい岩肌のあいだを削った場所に、イエスの磔刑像、そして聖母マリア、十字架のもとにひざまずくマグダラのマリアがみえる。神父さまと数人のクリスチャンの信徒が一心に祈りを捧げる姿が見えた。

 

―苦しい。

 

心臓が早鐘を打つ。ここから先はもう空気が違うのがはっきりわかる。怖い。けれど同時に、早く行かなければと気が焦る。

 

―着いた。

 

マグダラのマリアの洞窟だった。