逃げてもいい、でも不戦敗はずっと後悔する

 

ひとの相談にのっていると、「でもこれってわたしの逃げじゃないかと思って…」「逃げてもまた同じ問題がくるっていうじゃないですか」と言うひとがいる。結構いる。そういうひとは大抵まじめなひとだから、わたしは逆に「逃げてもいいじゃないですか。何で逃げちゃダメなの?」と返す。そういうとまた「うーん、でも…」となるのはわかっているのだが。

 

つらいときは逃げてもいいのだ。何より大事なのはあなたのカラダとココロの健康で、それを害してまで取り組むべき「何か」はない。逃げたとしても、それがあなたに必要な課題なら、確かにまたまわってくる。そのときまでに、あなたは成長していればいいのだ。強くなった未来の自分が、今度は真っ向からそのハードルを越えてくれるだろう。そう信じて、いったん逃げたっていい。

 

ただし、だ。ただしやっぱり、逃げないほうがいいこともあって、この差は何だろうなと考えていた。考えていて気づいた。「不戦敗」だ。不戦敗を選ぶという、逃げ。

 

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「いまこんなに走ってるのはさ、色々あるけど、学生時代にこういうのやってなかったってのもあるよね」

 

その日、わたしは女ともだち数人とパクチーまみれの晩ごはんーパクチー大好きなんですーを食べていた。Aさんは大人になってから走りはじめたマラソンランナーで、わたしからみたら「隙あらば走ってるな〜」というようなアスリート生活を送っている。

 

彼女は以前にもこんなことを言っていて、わたしはそれがとても心に残っていた。

 

「みかち(※わたしのこと)もそうだけど、わたしも4月生まれじゃん。4月生まれって子どもの頃は他の子より色々できるんよね。成績もいいし、運動もできるし」

 

「それが、あるときマラソン大会で○ちゃんて子に負けそうになってさ、この子に負けるくらいならって、なんかその場にしゃがみこんじゃったんよ。負けるくらいなら、やらない!みたいな。なんかそれがすんごいトラウマになってる」

 

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負けるくらいなら、やらない。やりたくない。

 

じつはわたしにもそんな傾向はあって、だからAさんのこのひとことにどきりとした。どきりとして、そして深く納得した。

 

わたしがこれまでの人生を振り返って後悔していることって、つらくて逃げたことではないのだ。「不戦敗」を選んだときだった。負けるかもしれないから、うまくできるかわからないから、はじめからしないー。

 

そしてこんな不戦敗もあった。本当はしたいと思ったのに、興味があったのに、本心を言うのがこわくてなぜか興味のないふりをしたこと。親にも友だちにも打ち明けられなかった、言葉にする前に消えていった、あの頃のわたしの率直な気持ちの数々。

 

振り返ればわたしは、そんな諸々のことを後悔している。言えなかった言葉、スタート台にも登らなかった挑戦、興味のないふりをしたあの頃のなにか。

 

つらくて逃げた課題は、またまわってくる。それは言い換えればまたチャンスがあるということだ。けれど、不戦敗でスルーしてしまった挑戦が、またまわってくるとは限らない。まわってきたとしても、あの頃と同じ感性で挑めるかどうかもわからない。

 

だからせめて、これからの人生では「不戦敗」をなくしたい。そして、過去「不戦敗」で逃げてしまったことに取り組むチャンスがまたまわってきたなら、ビビりながらでもいいから飛び込みたいのだ。みっともなくてもいい。負けたってもちろんいい。負けがひとつもない人生なんて、ただ不戦敗を選びまくったというだけだもの。

 

「これって逃げじゃないかと思って…」というひとには、これからも「逃げてもいいじゃん」と言おう。でも不戦敗はやめたほうがいいよ、きっと後悔するよ、とつけ加えながら。

わたしにとって英語は過去に結びつかない言葉なのです、という話

 

最近、英語を使う機会がめっきり減ってしまった。NYから帰って来た当時の自分の英語力を5とすると、いまは2.5-3くらいをウロチョロするくらいに低下している実感がある。どんな能力でも使わなければ衰えるのは当たり前のことだが、「いざとなれば英語づけになって、あれくらいまでは取り戻せるから大丈夫」という、根拠のない自信がますます自分を怠惰にしている。

 

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数年前、ネイティブの話す英語を聞き取れるようになり、自分でもある程度言いたいことが言えて会話が成り立つようになったとき、わたしはあることに気づいた。夢中で英語で会話をしたあとは、妙にすっきりしているのだ。元気になっている、と言ってもいい。多言語話者は、使う言語によってキャラが変わるというのはよく聞く話だが、それとはまた少し違った効果な気がして不思議に思っていた。

 

その後、心理学や感情について学んでわたしなりに「こういうことだろう」と納得していることがある。幼い頃の周囲の大人の口癖がその子のマインドセット(ものの考え方や捉え方のパターン、信念や思い込み)をつくるが、周囲に日本人しかいない環境で育ったわたしは、マインドセットがもちろんすべて日本語でインストールされているのだ。これはつまり、思考や言動の枠が、すべて日本語でつくられていると言ってもいい。

 

加えて、母国語である日本語には子どもの頃からいまにいたるまでの自分の記憶や感情がことごとく紐づいている。ひとはポジティブな感情を感じたときよりも、ネガティブな感情を感じたときのほうがより強く、より長くひきずってしまう習性があるが(※1)、こうした想い出ー怒られたり悲しい思いをしたりつらかったりの記憶ーも、わたしにとってはすべて日本語に紐づいているのだ。

 

大人になってから英語を習得し、なおかつシリアスな場で英語を使ったことがないわたしには、英語に紐づいているつらい経験がない。いや、正確にいえば、英語を使う環境のなかでつらい思いをした、という経験はあるけど、そのつらい経験も「日本語で」記憶しているのだ。”Hard experience”ではなく、「つらかった経験」として。

 

母国語のおかげで深い思考ができること、周囲のひとと深いコミュニケーションがとれることにわたしはとても感謝しているが、自分の思考や言動の枠をつくり、これまでのすべての感情や記憶と紐づいているこの母国語以外に多少なりとも使える言語があることには、それと同じくらい感謝している。わたしにとって英語は過去に囚われていない言語なのだ。それは明らかにわたしを自由にしてくれる。

 

グルグル考え過ぎて悩んだり、頭のなかで堂々巡りをしているときーもちろんそれらぜんぶ日本語をでしているー、わたしはときどき英語で自分に問いかけてみる。“Well, what would you like to do, Mika? ”(みか、結局、何がしたいの?)と。そして、自分の内側から返ってくる答えはいつも子どものようにシンプルでわたしはもう降参するしかない。難しい単語や言い回しを知らず、深刻な場で英語を使った経験がないからと言ってしまえばそれまでだが、言語がそのひとの思考、ひいては人生に与える影響を思うとそら恐ろしい気持ちにも、へんに愉快な気持ちにもなる。

 

日本語がつくったこの自分のアイデンティティを持ちながら、ときにあの子どものように迷いのないシンプルな声に耳を傾けられたらいいなと、久々に英語のラジオを聞きながら思った。

 

※「ネガティビティ・バイアス」といいます。ひとはネガティブな感情のほうがより強く、より長く印象に残してしまううえに、それを何度も反芻する傾向にあります。

 

ヒト、モノ、カネというけれど

 

経営資源として「ヒト、モノ、カネ(+情報)」とはいうけれど、ずいぶん乱暴なくくりだなぁと常々思っていた。「資本主義」というこの大きなゲームの盤上に乗せてしまえばたしかに「ヒト」は駒のひとつにすぎないけれど、その「ヒト」はひとりひとりが名前のついた誰かの息子や娘であり、何世代にも渡って受け継がれてきた習慣や文化を持ち、喜怒哀楽といった「心」を持つひとなのだ。そのことを知ってか知らずか「あっち(経済がまわっているところ)にもっとヒトが必要だから、こっち(それは大抵経済がまわっていないところ)から連れていこう」とコマのようにつぎはぎしてヒトを動かした結果が、昨年パリで起きたテロの原因のひとつである気がしてならない。

 

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世界を見ると「オールド資本主義」はあきらかに末期的な状況ーめまいがするような格差、それが生み出す混乱ーだけど、これってかつてヨーロッパで絶対的な存在だった教会が免罪符(※)なんか売り出して宗教改革を呼込んでしまったり、「すべて神がつくりたもうた」と説明する宗教にかわって新しい正義である「科学」が台頭してきた状況、「それまでのルールが変わる」前夜みたいな空気感と似ているんだろうなと思う。いまでも宗教を信じる敬虔なひとびとがいるように、資本主義を信じる敬虔なひとびとはこれからも残るだろうし、力も持ち続けるだろう。けれど、時代はゆっくりと新しいルールに変わってきていて、いつかこの新しいルールが古いルールを凌駕するときがきっとくる。古いパラダイムのなかで育ったわたしたちは、その変化のはざまにいて両側から引っ張られるようでとても苦しいけれど、この大きな渦のなかに生きられるのもラッキー!と思うしかない。そして、クンクンと嗅覚を磨いて新しいルールを探るのだ。

 

ヒト、モノ、カネ、そして情報が「資本主義社会」の大事な資源だったなら、これからの新しい社会は何を資源とするのだろう。せめて人間が一個体の「ヒト」ではなく、縦軸にも横軸にも繋がって生きる「ひと」として認識される社会であるといいなと思う。

 

※免罪符:カトリック教会が善行(献金など)を代償として信徒に与えた一時的罪に対する罰の免除証書。中世末期、教会の財源増収のため乱発された。1517年、聖ピエトロ大聖堂建築のための贖宥 (しょくゆう) に対しルターがこれを批判、宗教改革の発端となった。贖宥状。〜デジタル大辞泉より〜

※つぎの社会がどんなものになるのか、というのは岡田斗司夫氏の著書「評価経済社会」を参考につらつら考えています。

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