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自由と責任の嘘

 

世の中には誰が言いはじめたのかわからないけれど、なんとなくみんなでそれを当たりまえのこととして信じている言葉がある。洗脳だと思う。

 

「若いときの苦労は買ってでもしろ」とかね。あるとき「若いときの苦労は売ってでもしない」と言ってのけたひとがいて(そして彼は自由きままに成功しているひと)、それがあまりにも説得力があって、以来わたしはこの類の言葉を無条件に受け入れるのをやめた。

 

だって言葉はいつもそれを発したひとの意図が込められているのだ。そのひとの価値観をもとに、そのひとが信じる善きもののために。だからその価値観を採用するかしないか、その善きものを自分も同じように善きものとするかは自分で決めていいのだ。

 

そうやって「さもあたりまえ」の顏をして存在するいろんな言葉を吟味した結果、「自由には責任がともなう」というのも、いまでは嘘だと思っている。だって仮に不自由な生きかたを選べはそこには責任が発生しないのか?そんなわけない。そこにはまずその生きかたを「選んだ」という責任がある。(余談だが、何かにつけ不満が多いひとは、この「自分で選んだ」意識がないからだ)

 

じゃあ自由と引き換えに差し出すものがないのかといわれれば、そうではない。昨年ベストセラーとなった『嫌われる勇気』(※)のなかで哲人は『自由とは、他者から嫌われることである』と言っているけど、つまりはそういうこと、わたしたちが自由を選ぼうとするとき、引き換えに差し出さなければいけないのは安心感なのだ。それも「愛されている」というあたたかい安心感ではなく、「嫌われていない」という消極的な安心感。ひとは誰だってナイスでいたいし、好きこのんで嫌われたくはないから、その安心感を手放すのはとても怖いことなのだけど。

 

☆☆☆☆

 

「自分の自由な言動には、誰かの自由な言動が返ってくることがありますよ。それを知っておきましょう」というのがいまのわたしが思う自由の但し書きだ。そして、実際に誰かの自由な反応―それは怒りかもしれないし反対かもしれない―が起こったそのとき戦うのか、納得できる妥協点を探ろうとするのか、受け入れるのかスルーするのかそれはまた先の話だ。最初は、たんに自分の言動が周りを刺激してそこに至りうると知っておくこと。個人としては、それだけで十分だと思う。

 

「自由には責任がともなう」なんて、うそうそ。不自由にしてれば責任とらなくてすむわけじゃないし、結局は誰だって自分の人生の責任は自分でとるしかないのだから。

 

(※)「嫌われる勇気」岸見一郎/古賀史健 著


「自由と責任の嘘」への2件のフィードバック

  1. おはようございます。
    昨晩シェアさせていただいた者です。
    自分もアドラー読みました。
    自分の解釈は利が有れば必ず損も有る、バランスシートを思い浮かべてました。
    ギブアンドテイクでは無く、ギブアンドギブの生き方をしたつもりでも、やはり穴埋めする何かが必要なのではと思いました。
    自由と責任を権利と義務に置き換えて、SNSやプログでの現状に憂いを感じております。

    1. 昨日はありがとうございました。読んでいただき、コメントもいただき光栄です。

      ギブ&テイクではなく、ギブ&ギブ、共感します。
      いつのまにか自分が犠牲にならないようにとは気をつけていますが。。
      give and forget (あげて、忘れる)でいられるくらいに自然でありたいです^^

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