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逃げてもいい、でも不戦敗はずっと後悔する

 

ひとの相談にのっていると、「でもこれってわたしの逃げじゃないかと思って…」「逃げてもまた同じ問題がくるっていうじゃないですか」と言うひとがいる。結構いる。そういうひとは大抵まじめなひとだから、わたしは逆に「逃げてもいいじゃないですか。何で逃げちゃダメなの?」と返す。そういうとまた「うーん、でも…」となるのはわかっているのだが。

 

つらいときは逃げてもいいのだ。何より大事なのはあなたのカラダとココロの健康で、それを害してまで取り組むべき「何か」はない。逃げたとしても、それがあなたに必要な課題なら、確かにまたまわってくる。そのときまでに、あなたは成長していればいいのだ。強くなった未来の自分が、今度は真っ向からそのハードルを越えてくれるだろう。そう信じて、いったん逃げたっていい。

 

ただし、だ。ただしやっぱり、逃げないほうがいいこともあって、この差は何だろうなと考えていた。考えていて気づいた。「不戦敗」だ。不戦敗を選ぶという、逃げ。

 

☆☆☆☆

 

「いまこんなに走ってるのはさ、色々あるけど、学生時代にこういうのやってなかったってのもあるよね」

 

その日、わたしは女ともだち数人とパクチーまみれの晩ごはんーパクチー大好きなんですーを食べていた。Aさんは大人になってから走りはじめたマラソンランナーで、わたしからみたら「隙あらば走ってるな〜」というようなアスリート生活を送っている。

 

彼女は以前にもこんなことを言っていて、わたしはそれがとても心に残っていた。

 

「みかち(※わたしのこと)もそうだけど、わたしも4月生まれじゃん。4月生まれって子どもの頃は他の子より色々できるんよね。成績もいいし、運動もできるし」

 

「それが、あるときマラソン大会で○ちゃんて子に負けそうになってさ、この子に負けるくらいならって、なんかその場にしゃがみこんじゃったんよ。負けるくらいなら、やらない!みたいな。なんかそれがすんごいトラウマになってる」

 

☆☆☆☆

 

負けるくらいなら、やらない。やりたくない。

 

じつはわたしにもそんな傾向はあって、だからAさんのこのひとことにどきりとした。どきりとして、そして深く納得した。

 

わたしがこれまでの人生を振り返って後悔していることって、つらくて逃げたことではないのだ。「不戦敗」を選んだときだった。負けるかもしれないから、うまくできるかわからないから、はじめからしないー。

 

そしてこんな不戦敗もあった。本当はしたいと思ったのに、興味があったのに、本心を言うのがこわくてなぜか興味のないふりをしたこと。親にも友だちにも打ち明けられなかった、言葉にする前に消えていった、あの頃のわたしの率直な気持ちの数々。

 

振り返ればわたしは、そんな諸々のことを後悔している。言えなかった言葉、スタート台にも登らなかった挑戦、興味のないふりをしたあの頃のなにか。

 

つらくて逃げた課題は、またまわってくる。それは言い換えればまたチャンスがあるということだ。けれど、不戦敗でスルーしてしまった挑戦が、またまわってくるとは限らない。まわってきたとしても、あの頃と同じ感性で挑めるかどうかもわからない。

 

だからせめて、これからの人生では「不戦敗」をなくしたい。そして、過去「不戦敗」で逃げてしまったことに取り組むチャンスがまたまわってきたなら、ビビりながらでもいいから飛び込みたいのだ。みっともなくてもいい。負けたってもちろんいい。負けがひとつもない人生なんて、ただ不戦敗を選びまくったというだけだもの。

 

「これって逃げじゃないかと思って…」というひとには、これからも「逃げてもいいじゃん」と言おう。でも不戦敗はやめたほうがいいよ、きっと後悔するよ、とつけ加えながら。


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