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平等に扱われたい、けど守られたい

 

上の世代が学校で教育されてきたこと、そして現在の学校教育現場の雰囲気がわからないので何ともいえないけれど、’81生まれのわたしは男女平等に教育を受けてきた世代だ。もちろん男子も家庭科の授業があったし(というか、昔はそれがなかったというほうがリアリティがない)、学生時代は少なくともあからさまに「男だから」「女だから」という線引きをされた覚えがない。もっとも学校という狭い世界のなかでは評価のモノサシが「勉強」や「スポーツ」、「課外活動」くらいのものだし、とくに「勉強」なんてもちろん男女の差なく優秀な子がいたから、評価においての「平等」なんて気にならなかったのだろう。

 

けれど、大学卒業後に放たれた社会はやはり男性が中心にまわる社会だった。これか!世のおねーさまがたが声高に叫んでいたことは。

 

平等に扱われたい。平等に評価されたい。何でこのおっさんにお酌しないといけないんだ!

 

けれど同時に、自分のなかにひっそりと不思議な感覚も芽生えた。正直にいえばそれは妙に心地のいいものだった。若い女の子扱いされるということで、自分が若い女の子であったことに気づいた気分。それは何だかお得な気分で、でもそれをあからさまに認めてはいけないような気がして見てみぬふりをしてきたように思う。

 

それから10年ほど経ち、社会のなかで「若い女の子」扱いされなくなってきたとき、わたしは自分のなかに存在してきたこの不思議な感覚の正体と、矛盾した2つの欲求にはっきり気づいた。社会では「平等に扱われたい」と思ういっぽうで、わたしは確かに「男性に守られたい」とも思っていたのだ。守られたい。可愛がられたい。”女性として”みられたい。女性扱いされなかったら悲しいー。

 

オフィシャルな場では「ひととして」平等に扱われたいと願い、少しでも不平等だと思うことがあれば憤りを感じるのだ。なのにその同じ人間がプライベートな場では「男性に」守られたいと願い、その願いが少しでもくじかれると「女性として」の自分が評価されなかったようでみじめになる。しかもややこしいことにそのオフィシャルとプライベートの境界線はとてもあいまいで、そのあいまいさがあるからこそわたしが社会に出た頃に感じた「若い女の子扱い」されたときの妙な心地よさがあったのだろう。

 

社会的な「ひと」としての欲求と、「女性」としての欲求ーそれが生物的なものなのか、社会のなかで後づけされたものなのかはわからないがーとがひとりの人間のなかに混在することを、わたしはつい最近まで自分のなかに認めることができなかった。だって「守られたい」なんて!男女平等を善とする自分の挟持はいったいどこにいった、である。

 

けれど、もしもこの矛盾がわたしだけのものでないとしたら、男女共同参画ーというダサいネーミングがもう嫌なのだけどーというトピックがいまいち多くのひとを巻き込めないのは、じつはこんなところにも遠因があるのではないかと思う。この矛盾を当の女性側も認識できておらず、言語化できていない。言語化できていないからこそ、一部のエッジのきいた女性の先輩がたの言動が、「わかるけど、なんか違うんだよね…」と遠ざけられてしまう。それはわたしのように「社会では平等に扱われたいし、そういう社会であるべき」と思ってはいるけれど、同時にひっそりと「守られたい」欲もある(それは自覚のあるなしに関わらず)女性たちに。でも「守られたい」なんて言ったら怒られそうだし何も考えてない「愛され○○」のカテゴリに入れられそうでそれも嫌だし違うし(※)、あいまいに口をつぐんで遠巻きにしてしまう。男性なんて端から見ていてもっとわけがわからないだろう。平等に扱われたいのに、守られたい?「結局どっちやねん」であろう。矛盾しててすみません、としか言いようがない。

 

もしも誰かにわたしのこの「守られたい」という欲求も社会的に後づけされたもので、平等という意味ではなくなるべきなのだと言われたら「そうかもしれないな」と素直に思う。思いはするけど、ついてはいけない。だって、もうここにあるんだもの。

 

「ひととして平等に扱われたい」と思う気持ちと「男性に守られたい」と思う気持ち、そしてそれを発揮していいところと発揮すべきではないところ。気持ちは年齢によって変わるのかもしれないし、変わらないのかもしれない。いずれにせよ自分のなかでそのベストバランスを見つけるしかないのだろうが、わたしはまだそれを見つけられていない。

 

(※)「愛され○○」(女子、彼女、妻etc…)が何も考えてなさそうというのは、「女性性を全開にして、それを屈託なく楽しんでいる彼女たち」を真正面から見れないこじれた女性たちの羨ましさが1回転してると思ってください。


「平等に扱われたい、けど守られたい」への2件のフィードバック

  1. 女性に理解があると思っている男性からみると、時々この女性がと思う人が、えっと思うことを口走るのはその曖昧な線引きのせいかと少し納得しました。
    鋭く、正直で飾らない文章に感心しました。私は画家ですが、こんな表現ができたらな、と思いました。

    1. コメントをいただきありがとうございます。「女性として」という土俵で話しているときと「ひととして」という土俵で話しているときがあって、そのスイッチングがみんな違うからすれ違うのでしょうね。女性側の課題は男性側の課題と表裏一体だと思うので、もう少し深堀りしてみたいと思います^^

      画家の方に表現を褒めていただき光栄の極みです!

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