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書かなくなった手紙

 

数年前から、Room to Readという非営利団体の活動に共感してときどき寄付をしている。彼らがCool(かっこいい)だなと思う点は色々あるけれど、設立者であるジョン・ウッド氏が最初の著書(※)のなかで、「寄付を募る団体にありがちな『ガリガリに痩せた子どもたちがこちらを見つめる』ような写真を見てひとびとは罪悪感からお金を払うかもしれないが、それよりは子どもたちの未来や希望にお金を出したいと思うのではないか」というようなことを書いていたことが心に残っている。

 

ひとにとって「罪悪感を刺激される」というのは、もちろん気持ちのいいものではない。その罪悪感から逃れるために何らかのアクション(上記の例でいえば寄付など)を起こしてもそれが継続しにくかったり、本人がちっともハッピーじゃないのはその出発点が「罪悪感」だからだ。たとえそのアクション自体はとても素晴らしいものだったとしても。

 

☆☆☆☆

 

わたしは亡くなった祖母に以前はよく手紙を書いていて、けれどあるときそれをぴたりとやめてしまった。それは純粋に祖母を想う気持ちからというより、自分の「罪悪感」から書いているものだと気づいてしまったから。祖母も認知症が進み、もうあまりわたしの手紙を待ち望んだり大切にしたりという風じゃなかったということや、もう子どものように思ったことを口に出すようになっていた彼女の、悪気のないひとことで不本意に傷ついてしまったというのもその決断に拍車をかけた。

 

幼少期の親や周囲のおとなの口癖なんかが、子どもの思考パターンのフレームを決める。幼い頃から祖母の苦労話をよく聞かされて育ったわたしは(※)、いつのまにか「祖母はかわいそうなひとだ」という強烈なインプットと「自分は何もできなくてごめんなさい」という勘違いが醸成がされてしまったらしい。そのかわいそうな祖母に何かしてあげたくてーというより、しないと悪い気がしていたのかもしれないー手紙を書いたりプレゼントを贈っていたのだ。悲しいけれど、いま思うと出発点は「罪悪感」だった。だからどんなに祖母が喜んでくれても、わたしはいつも嬉しいというより、泣きたいような気持ちだったのだろう。

 

以来、何かをするとき、それが「愛」からくるものなのか「怖れ」からくるものなのかをときおり自分の胸に聞くようになった。それがどちらも表面的には同じ行動でも、自分が受け取るものがまったく違うから。たとえば純粋に相手を想ってあたたかい言葉をかけるのと、相手に嫌われたくなくて言葉をかけるのとではその行動自体が同じでも自分の見える景色はまったく異なるということだ。わたしがかつて手紙を書くたびに祖母がよろこんでくれても、この胸はいつもひっそりと晴れることがなかったように。

 

「罪悪感」からではない、ただ純粋に「愛」から書いた手紙を出す前に祖母は逝ってしまったけれど、いまはただ記憶のなかで少し若返った祖母に笑って話しかけている。おばあちゃん、確かにすごく苦労したけど、楽しいこともあったでしょ。それにいつもどこかでごめんねと思ってたけれど、もう謝ったりしないよ、だってわたし別におばあちゃんに悪いことしてないもん、と。

 

「マイクロソフトでは出会えなかった天職 ぼくはこうして社会起業家になった」 ジョン・ウッド著

※ひとって、ハッピーなことより苦労したことを覚えているものです。で、それを語るのって本人にとってはある種のエンタメのようなものだと思うのですが、子どもはそれがわからず何度も何度も「かわいそう」な話としてインストールしちゃったのですね。

 


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