パリ8区。オペラ座から徒歩圏内、世界中の高級ブランドショップが立ち並ぶこの華やかなエリアに、マグダラのマリアを祀るマドレーヌ寺院はあった。
マグダラのマリア―。
いったいどれだけの日本人が、「ダヴィンチ・コード」を読む(もしくは観る)前からこのひとの名前を知っていただろうか。西洋ではキリストや聖母マリアに負けず劣らず有名な女性だというが、さしてキリスト教や西洋美術に興味のない一般的な日本人―これもずいぶん漠としたくくりだが―にとっては、あまりなじみのない存在だろう。
かくいうわたしも、「ダヴィンチ・コード」で初めてその存在を知ったクチ。ほとんど興味のなかったこの教会に行こうと思い立ったのは、またもやチホコさんから聞いた話に興味をそそられたからだった。
「マドレーヌ寺院には確か右手のほうに聖母マリアの像があるんですけど、これがまたおもしろいんですよ。マリアさまが子どもを抱いているんだけど、なぜか子どもの腰布をはだけさせるようにたぐって持っていらっしゃって。だから下が見えるんだけど、その子がね…女の子にみえるの」。
聖母マリアが子どもを抱いている、といえば、それは幼いキリストだろう。子どもが女の子のはずはない。
「じゃあこのマリアさまって、どのマリアさまでこの子は誰なんだろうって。じつはマグダラのマリアはキリストと恋人か夫婦関係にあって、子どもがいたっていう説もあるでしょう?それでその子はサラっていう名前の女の子だったって」
もちろんどこまで本当の話かはわからないけれど、とチホコさんはいう。
「でも、そういうことを追求したり研究するのもおもしろいですよね」
同感だった。
☆☆☆☆
まるでギリシア神殿のような外観の、巨大で威風堂々とした建物。それがマドレーヌ寺院だ。コリント式の特徴的な柱が整然と並ぶその姿は、事前に聞いていなければ誰も教会とはわからないだろう。
正面の大階段をおおまたで駆け上がり、入り口からそっと内部へと入る。
昼間でもほの暗い空間は、ほかの教会と違って側廊がないからだろうか。外から眺めるより内部はさらに大きく感じられた。
―あ、やっぱり違うかたなんだ。
正面の主祭壇には「マグダラのマリアの歓喜」とよばれる像が置かれている。中央で手を拡げたマグダラのマリアを天使たちが囲むその彫像は、まるで白くやわらかい大理石を風がそっとなでたまま切り崩してきたかのようだった。
美しい!
何の予備知識もないままにみれば、これが聖母マリアなのかマグダラのマリアなのかわからなくても不思議ではない。
でも―。
ひざまずいて熱心に祈りを捧げるふたりの観光客の後ろから、じっと像を見上げて思う。
―やっぱりこれは聖母マリアではないってわかる。だって発しているものが違うもの。
比較対象を得てはじめて、それそのものが持つ特徴を知ることがある。海外に出てはじめて、日本という国のよさもおかしなところも分かるように。
これまで見たマリア像は、「慈愛」を放っていた。母性。女性性が持つ「受け止める」力とその大きさ。それらをひっくるめたうえでのマリアさま、だったのだ。すべてを受け止める愛、包み込む愛。でも誤解を恐れずにいえば、それは「受動」の愛の姿だった。「静」の愛、とも言えるかもしれない。作者たちも、それを意図して作品をつくりあげてきたのだろう。
でもこのマグダラのマリアは―
「動」だ。神秘的ではない、ひとりの女性だった。





