「マダム、すみません、このカード使えないみたいです」
新鮮な牛肉のカルパッチョとよく冷えた白ワインは、だいぶ遅めのランチ、もしくは早めの夕ごはんだった。あのゴッホの名画「夜のカフェテラス」のカフェがある街の中心広場から、ほんの少し離れた裏通りにある小さなワインバー。店内にはカウンター、通りに沿って2つの小さなテーブルが出してあり、わたしはそこに座っておおいに感動しながら―この美味しさでこの値段?―その1皿を平らげたところだった。目の前のもうひとつのテーブルでは、20代とおぼしき2人の女性がガールズトークに華を咲かせている。
身振り手振りと片言の英語を駆使してあなたのカードは使えない、と言うムッシュ。そして明らかにわたしのカードを拒絶している読み取り機。カードが使えない?わたしの財布にはいま4ユーロしかない。
「ムッシュ、ごめんなさい。わたしいま現金がないんです」。
こちらも負けじと片言のフランス語と身振り手振りで返す。するとムッシュ、苦笑してもういいよ、と言うではないか。
いやいやいや、ここで無銭飲食をやらかして日本人の名を汚すわけにはいきません。
「わたし、この先のHotel du Museeに泊まっているMikaといいます。あとで払いにきますね」。
平謝りに謝ってお店を後にした。さて、どうしたものか。
とりあえず歩いて3分ほどのホテルに戻り、フロントにいた息子さんに聞く(このホテルは気のいい素敵なファミリーが経営していた。よくフロントにいるのが英語が達者なお母さん、もしくは上の息子さん。お父さんはよく館内を掃除をしていてフランス語で気さくに話しかけてくる)。
「あのー、このあたりに両替所ってありますか?」。
銀行じゃなくて?と聞き返され、うん、じつは銀行のATMで現金下ろそうとしたらパスワードがわからなくて、何度かトライしたらカード自体止められちゃったみたい、というと、おぉ、それは大変だと息子氏。余談だが、彼らからみると日本人が幼く見えるように、わたしからみればヨーロッパ人は一様に大人びて見える。この息子氏もてっきり自分と同年代だと思っていたら10歳ほど若くて、なんていうかこう、がっくりきた。
ちょっと待って、僕じゃわからないから聞いてくる、とフロントからすぐの中庭のテラスで休憩していた清掃スタッフのおばさまに何やら話しかける息子氏。おばさまは何か知っているようだ。
「コロセウムの近くにあるって」。フロントに戻り、デスクに常備してあるアルルの観光マップを拡げて丁寧に道案内をしてくれる彼の説明を聞きながら、これはカンで行くしかないな、と早々と悟る。日本語で道をたずねてもだいたいにおいて迷う女だもの、フランス語なまりの英語で聞いた道をすんなり行けるわけがない。
☆☆☆☆
結論からいうと、地図を渡され赤ペンでグリグリっとマークされた場所には両替所なんてなかった。うん、まぁそうだよねそんなもんだよね、と目の前のコロセウムをみあげる。
不思議だ。1mmも焦っていなかった。カードが使えないと言われお店を出てからいまにいたるまで、一瞬たりとも動揺で心が揺れなかった自分に驚く。財布には4ユーロしかないのに?スーツケースに忍ばせていたこの少しの日本円だって両替できないかもしれないのに?昔のわたしだったら、まずムッシュにカードが使えないと言われた時点でパニックになっていただろう。それと、羞恥心で死ぬほど動揺してたはず。泣きそうになっていただろうし、まるで世紀の大罪を犯したかのような気分で、この青い空もコロセウムも目に入らなかったに違いない。
―大騒ぎしても、結果が変わるわけじゃなし。
ただたんたんとできることをして、お金が調達できなかったらそれはそのときだ。騒いだって仕方ない。それに、まぁ根拠はないけど大丈夫でしょう。
無理に、ではなく当然のようにそう考えている自分は成長したのだろうか、それともただ図太くなったのだろうか。羞恥心がなくなるのはおばさんの始まりだというけれど、これがそれ?
わからない。けれど確かなことは、以前より確実に生きやすい自分が、いつのまにか自分のなかで育っていたということだった。
近くにあるカフェからもれるWifiを使って、久々にFacebookのメッセンジャーを立ち上げる。日本にいる女ともだちにSOSを発信した。
「アルルでカード止められた。4ユーロしかないよ」。
大丈夫?!とすぐさまみんなから返信がくる。
「みかち、持ちものでフリマしたら?」
「そうだよ、『わたしは4ユーロしかありません』て書いておいたら、みんな買ってくれるよ!」
「筆ペンで名前を書いてあげて、それ売ったら」
「みかち、これこそ世界で稼ぐ女だよ!」
「そしてこれをネタに1本書けるじゃない」
にわかに活気づく画面を見つめて、あはははっと声を出して笑った。
―いつのまにか、じゃなかった。この愛すべき友人たちが、わたしのなかの強いわたしを育ててくれたんだ。
「あーあ、ったくもう、どうしよっかなー!」
ひとり笑いながら、街の中心広場へ向かって歩きだした。アルルの日差しがじりじりとわたしを焦がす。きっと誰かが何かを教えてくれるだろう。その前にホテルの息子氏に文句のひとつも言ってやろうか。
ひとっこ一人いなくなったコロセウムの階段で、ギター弾きが歌いはじめた。わたしは背中でその声を聴いた。古い映画の、恋の歌だった。





