「宿命」を越えて、「運命」を生きよ

 

8月15日の朝、父方の祖母が亡くなった。94歳だった。

 

お盆で帰省していたわたしを、8月14日、父と一緒に地元の空港まで送った帰りの車中で急に胸が苦しいと訴え、入院。心筋梗塞だった。けれどそのまま集中治療室に入れられた祖母は、いったんそこで持ち直す。驚異の94歳だ。手術を受ければ回復するだろうとまで言われ、父は迷うことなくそれを決断した。もちろん年齢のこともあり100%の可能性ではなかったけれど、父は祖母にどうしても生きていてほしい理由があったから。

 

何も知らぬままのんきに福岡に着いたわたしが連絡を受けたのは、この一連のできごとが落ち着いた、14日の夜の時点。おばあちゃん子だったわたしは驚きと動揺とで電話口で大泣きしたけれど、ここ数年ちょこちょこ体調を崩したり入院する度にちゃんと元気になって帰ってきた祖母のこと、今回も大丈夫だろうと思ってしまった。さすがに今日帰ってきてすぐまた実家に戻ることはできない、手術の際にまた会いにいこうと決めてとりあえずその日は眠りについた。いま思えば、完全に自分の希望的観測だった。

 

翌15日朝、医師の回診の際、祖母は顔色もよく意識もあったという。けれどその後、ほんの少し医師と看護師が目を離した際に急変。ふっと一瞬で意識が遠のき、祖母は帰らぬひととなった。最期は心臓破裂、苦しむ間もなかったでしょう、と医師はいう。入院の諸準備で、家族が家に帰っているあいだのことだった。

 

こんな日がいつ来てもおかしくないのだと、家族、親戚、誰もが心のどこかで思ってきた。90歳を過ぎれば天寿なのだとも。

 

けれどそれでもなお、最期のその瞬間、誰もそばにいてあげられなかったことが残念でただただ悲しい。手を握ってあげられなかったこと、子や孫みんなで見守ってあげられなかったこと、そしてもっといえば、思い返せば最期となってしまった日々、「もう少し自分がなんとかしていれば」「あのときこうしていれば」「もっと会いにいけばよかった」「どうしてもっとやさしくしなかったんだろう」と周囲にいた誰もが思い、みんな少しずつ自分を責めた。そんなこと思う必要はない、ともちろんひとはいうのだけれど。

 

☆☆☆

 

1921年、茨城の田舎の農家で生まれた祖母は実の母親が彼女を生んだすぐ後に亡くなり里子に出されたという。6歳のときに実の父親が迎えに来たけれど、走って逃げちゃったんだ、と昔語りで聞いたことがある。そのままその実の父親の手をとり一緒に帰っていたら、あとに続く彼女のストーリーも違うものになっていただろうか。いまではもちろん、知る由もない。

 

里子に出された家では義理の妹たちやそこにいた家族の世話に追われ、12歳で奉公に出されたという。奉公先では毎朝、川の水で洗濯をしながら、眠くて眠くて居眠りをしたこと、夜寝る前は手を合わせて生みのお父さんお母さん、育てのお父さんお母さんにおやすみなさいを言ったこと。リアルおしんとしか思えない話を何度も聞いた。おばあちゃんは小学校も出てないんだよ、もっと勉強したかったと、子どものわたしによく言っていたっけ。

 

もちろん、70年前のあの戦争だって経験している。B29が海辺の工場街を襲うとき、まだ乳飲み子だった長女を背中におぶい、「空襲警報発令!空襲警報発令!」と近所じゅうにふれてまわったとよく教えてくれた。

 

4人の女の子と1人の男の子を生んだけれど、3歳の次女を病気で亡くした。40代で未亡人となり、そこから、まだ高校生だった末の長男—わたしの父—を育てあげ東京の私立の大学までいかせた。

 

―どんな歴史書にだって決して名前が残ることはない、生れ落ちた場所と時代に翻弄されながら必死で生きた、祖母の人生。

 

子どもの頃は、おばあちゃんはなんて大変な人生を生きてきたんだろう、かわいそうだとばかり思っていた。

 

でもね。

 

彼女は、奉公先を出たあと働いていた工場で、大好きなひとと出逢った。「ハンドル部にいい男がきた」と聞いて、友だちと見にいったんだ〜、と子どもたちにも話さなかったことを、なぜか80過ぎてから孫のわたしに教えてくれた。マラリアで寝込んだおじいちゃんを、3日3晩看病して、ゲットしたんだよね。浮気性で大酒飲みだったおじいちゃんでさんざん苦労したと言ってたけど、それでも大好きだったんだよね。おじいちゃんが天国にいって40年以上経ってもなお、いつもどこへでもその写真を持ち歩くほどに。

 

子どもだって、何だかんだみんな立派に育ってる。孫だってひ孫だってみんな元気。50歳を過ぎてようやく親孝行に目覚めた息子(わたしの父)と、ここ数年は週末の度にドライブしてた。嫁姑だって昔はよくバトル勃発してたけど、もうこの10年で誰よりも一緒にいたのは娘でも息子でもなく、その嫁(わたしの母)になってたね。軽度の認知症になっていたここ最近では、身近に母の姿がいないと不安になってよくその姿を目で探してた。いろんな場面でサポートは必要になっていたけれど、それでも最期まで自分の足で歩き、好きなお肉をみんなと同じようにムシャムシャ食べ、家で過ごせたのってすごいことだよ。

 

たしかに、苦労の連続だった祖母の人生だ。それでもいまわたしは、彼女がかわいそうだったとは思わない。だってそれを決められるのは、おばあちゃん本人だもの。ひとは大変だったことをよく覚えているものだ。けれどきっと、それ以上に日々の生活のなかで小さなしあわせもたくさんあったはずなんだ。たとえそれらがすべて記憶の彼方に忘れ去られていたとしても。それは決してなかったことにはならない。

 

―おばあちゃん。

 

でもどうして最期に、待っていてくれなかったの?みんなおばあちゃんのこと、見送りたかったんだよ。「誰にも迷惑かけないでぽっくり逝くんだぁ」ってよく言ってたけど、本当にひとりで逝くことないじゃない。

 

おばあちゃん。

 

どうしてわたしは、最期おばあちゃんが見送ってくれたときハグしなかったんだろう。「またね」って手をふっただけになってしまったよ。

 

おばあちゃん。

 

生みのおかあさんの顏を1度でいいから見てみたいといってたおばあちゃん。けれど最期はあんなに葛藤があった育てのおかあさんと同じ94歳の8月15日に亡くなるなんてね。

 

おばあちゃん。

 

ずっとおばあちゃんの面倒をみてたおかあさん(わたしの母)が入院して1週間後に亡くなったおばあちゃん。「自分がいたらえみちゃん(わたしの母)が大変だから」って逝ったんじゃないかって、おとうさんすごく気にしてたよ。あのおとうさんがずっとずーっと泣いてたよ。そんなこと、ないよねぇ。

 

おばあちゃん。

 

わたしね、昔は誰かが亡くなったらそのひとのぶんまで生きようって思ってきたの。それが、供養になるって。

 

でもね、わたしおばあちゃんのぶんまで生きようとは思わないよ。だって、おばあちゃん自分の人生生ききったもんね。わたしなんかが背負う必要がないほどに、最期まで生きた。本当に、すごかった。

 

―わたしたちがみなそうであるように、祖母は生まれた家や時代や環境を選べなかった。それは変えられない「宿命」だ。

 

けれど、彼女はその後自分で「運命」をつくった。自分で働き、最愛のひとと出逢い結婚し、子どもを育てあげ、その後の人生も生ききった。そこにはつねに「宿命」を越えた彼女の「意志」があった。

 

わたしは、わたしはどうだろう。自分の生まれた時代や家や環境という「宿命」を越えて「運命」をつくっているだろうか。そうやって精一杯生きているだろうか。

 

90年以上前に生まれた女の子が、ここまで魅せてくれたんだもの。これからはわたしが、いったいどんな景色が見れるのか、どんな場所へ辿り着けるのか、この一生を通じてやってみようと思う。

 

ね、おばあちゃん。だからそこから楽しんでみててね。

 

※このカテゴリ(Mind and Heart)にあまり関係のない内容ですが、ご容赦ください。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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