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【VOL.17】9:23発、アルル行き

 

その日、予定では8:30にはパリ・リヨン駅に到着して、「ヨーロッパのターミナル駅の朝の雰囲気」をコーヒーでも飲みながら満喫しようと思っていたのだ。オンラインで予約していたチケットを構内でプリントアウトしても、9:23発アルル行きのTGVには余裕で乗れる。

 

迷ってギリギリになって焦るのは嫌だからと、事前にフロントのムッシュに駅までの行きかた―今日は地下鉄の○線が走っていないから、こちらの駅まで行ってから乗るといいですよ。途中、乗り換えて○線に乗ってください。大丈夫、20分もあれば着きますから―を訊ねて、地図にもマークしてもらい、十分余裕を持ってチェックアウトして出てきたはず―

 

―なのに、いったいどういうこと?なんでわたしは9:10になろうかというこの時点でまだこんなとこ必死に走ってるのよ!

 

リヨン駅がまだ見えてもいなかった。

 

やたら通路の長い地下鉄の駅で迷う。通勤ラッシュのなか急ぎ足でゆくひとを呼び止めて聞くことができない(ビビって)。いったん乗った地下鉄が間違っていて降りる。この時点で8:50過ぎ。その駅でチラシを配っていたメガネをかけたやさしげなお姉さんに泣きつくと、いったん△駅まで戻ってそこから○線にのるといいという。

 

「ちがうちがう」。なぜかそこで、ホームレスのおじちゃんが会話に割り込んでくる。「ここから☆線にいったほうが早い」(フランス語は分からないけど、そんなことを言ってアドバイスしてくる)。

 

お姉さんと顏を見合わせた。もう、間に合うかどうかもわからない。

 

「ムッシュごめん!おねえさんを信じるよー!」と日本語で言い放ってまた地下鉄に乗るべく駆け出した。

 

☆☆☆☆

 

わたしの世代のある一定数のひとびとは、子どもの頃に読んでいた人気漫画「スラムダンク」の名場面をセリフとともに暗記しているようなところがある。なかでも2大人気セリフといえば三井くんの「バスケがしたいです」と安西先生の「あきらめたらそこで試合終了ですよ」(未読の方にとっては意味不明で申し訳ない)。

 

もう9:23発の電車に乗れるかどうかわからない、となった状況でわたしのなかで生まれた感情を、何と表現したらいいだろう。それはわたしにとって、とてもとても近しいものだった。

 

諦め。

 

―いいじゃない、もう。そんなに急いだって間に合うかわかんないよ。諦めて違う電車にしたらいいいじゃん。

 

―何をそんなに焦ってるの?みっともないよ。

 

旅という非日常のなかで、こんな状況になって気づいた。わたし、この感情、すごくよく知ってる…。

 

地下鉄の窓に写る見慣れた自分の顏を見つめながら、情けなくて泣きたくなった。

 

あぁ、わたしは普段、冷静を装いながら色んなことを諦めているんだ。最後の最後まであがく前に、どうしてもこれが欲しいとなりふり構う前に、落ち着いた大人の対応でしょとばかりに熱を出し切らず、平気なふりをしてただ諦めてる。欲しかったのに、欲しくて必死で手を伸ばしたのに、手に入らなかった…そんな自分を見るかもしれないのが怖くて、最初からさほど欲しくないフリをしている。

 

感情の波に飲まれないひとになりたかった。ネガティブな思考と感情のスパイラルにはまると落ち込んでなかなか抜け出せない、そんな自分が心底嫌だった。だからこの数年、たくさん勉強もした。心理学、コミュニケーション、何より感情のこと。救われたことも多かった。以前のわたしより、強くなれたと思っていた。

 

手すりをつかみ下を向き、唇をきつく噛む。

 

感情の波に飲まれないということは、情熱を失うことと同義ではないのに―。

 

☆☆☆☆

 

そうこうしているあいだにおねえさんに教えられた駅に着く。改札を出て階段をかけあがるとすでに9:05を過ぎていた。リヨン駅はTGVのターミナル駅だ。きっと大きくて入り口さえ迷うだろう。さらにそこでチケットをプリントアウトしないといけない…。

 

“Excusez-moi!! Parlez-vous anglais?” (すみません!!英語話せますか?)

 

気だるげにタバコをくゆらせてた学生風のパリジェンヌに話しかける。もうその場でいちばん優しそうなひとを選んでいる余裕もなかった。

 

“Oui.”(ええ)

 

屈託ない笑顔で返してくれた彼女にリヨン駅までの道を訊ねる。この道をまっすぐ行って、最初の信号を左に…と大きなジェスチャーを交えて丁寧に教えてくれた。

 

“Thank you so much! Merci!!”(ありがとう!メルシー!!)

 

どういたしまして、大丈夫、10分もかからないですよという彼女の声を後ろに全速力で走り出す。10分かかったら困るんだよ!赤いスーツケースがゴロゴロなっている。コートの下はもう汗まみれだ。

 

くそー、絶対乗ってやる!とにかく最後まで走ってやる!!

 

だって、諦めたらそこで試合終了だもんね、安西先生。

【VOL.16】聖母マリアとマグダラのマリア

 

聖母マリアとマグダラのマリア―。

 

The Virgin (処女マリア)と呼ばれ、処女受胎で神の子イエス・キリストを身ごもったとされる女性。清らかな母、すべてを受け止めてくれる母性の象徴のようなひと。

 

一方、The Sinner(罪のひと)と呼ばれてきたマグダラのマリア。もともと新約聖書にそのような記述があったわけでもないのに、後の解釈(6世紀のローマ教皇大グリゴリウスによるとされる)により自らの美貌と快楽に溺れた娼婦であったと喧伝されてきた女性。

 

聖母マリアがわたしたちが求める「究極の母親像」を投影され続けたひとだとすれば―

 

マドレーヌ寺院のなかを回遊するように歩きながら思う。

 

マグダラのマリアは、そこからはじかれてしまったもの、究極の女性にはふさわしくなかったものを、引き受けさせられてしまったひとだな―。

 

「聖母」にはふさわしくないもの、それは最も俗的な部分、人間的な部分、そして受け止めるスタンスではない「動」的な部分だろう。

 

きっと普通の人間―わたしのような―が手を合わせるとき、ピカピカに曇りのない聖人だけでなく、彼女のようなストーリーを持ったお手本が必要だったに違いない。若さと美貌ゆえ、快楽に溺れていました。娼婦となりました。けれど、回心してその後は信仰につとめました。そして最後は、聖人にまでなりました―。

 

それにしても、といまチホコさんが教えてくれた聖母子像の前に立ち止まって思う。

 

本当はふたりはどんな女性だったんだろう?

 

後世の人間が、自分たちが求める女性像を半ば好き勝手に投影して創り上げたキャラクターとしての聖母マリアでもなく、マグダラのマリアでもない、ただひとりの女性としての彼女たちは、いったいどんなひとだったのだろう。

 

―そもそもだよ、そもそも、聖母マリアだってセックスしたよね、だって子どもを産んでるだから。お母さんにセックスを連想させるものをみたくないって、それは子どもの勝手な言い分だよね。

 

―もしくは、モテない男の自意識こんがらがった押しつけだよ。

 

押し寄せる頭のなかのひとりごとを振り払いながら見上げた聖母が抱くその子どもは、たしかに女の子に見えた。

【VOL.15】「静」の愛、「動」の愛

 

パリ8区。オペラ座から徒歩圏内、世界中の高級ブランドショップが立ち並ぶこの華やかなエリアに、マグダラのマリアを祀るマドレーヌ寺院はあった。

 

マグダラのマリア―。

 

いったいどれだけの日本人が、「ダヴィンチ・コード」を読む(もしくは観る)前からこのひとの名前を知っていただろうか。西洋ではキリストや聖母マリアに負けず劣らず有名な女性だというが、さしてキリスト教や西洋美術に興味のない一般的な日本人―これもずいぶん漠としたくくりだが―にとっては、あまりなじみのない存在だろう。

 

かくいうわたしも、「ダヴィンチ・コード」で初めてその存在を知ったクチ。ほとんど興味のなかったこの教会に行こうと思い立ったのは、またもやチホコさんから聞いた話に興味をそそられたからだった。

 

「マドレーヌ寺院には確か右手のほうに聖母マリアの像があるんですけど、これがまたおもしろいんですよ。マリアさまが子どもを抱いているんだけど、なぜか子どもの腰布をはだけさせるようにたぐって持っていらっしゃって。だから下が見えるんだけど、その子がね…女の子にみえるの」。

 

聖母マリアが子どもを抱いている、といえば、それは幼いキリストだろう。子どもが女の子のはずはない。

 

「じゃあこのマリアさまって、どのマリアさまでこの子は誰なんだろうって。じつはマグダラのマリアはキリストと恋人か夫婦関係にあって、子どもがいたっていう説もあるでしょう?それでその子はサラっていう名前の女の子だったって」

 

もちろんどこまで本当の話かはわからないけれど、とチホコさんはいう。

 

「でも、そういうことを追求したり研究するのもおもしろいですよね」

 

同感だった。

 

☆☆☆☆

 

まるでギリシア神殿のような外観の、巨大で威風堂々とした建物。それがマドレーヌ寺院だ。コリント式の特徴的な柱が整然と並ぶその姿は、事前に聞いていなければ誰も教会とはわからないだろう。

 

正面の大階段をおおまたで駆け上がり、入り口からそっと内部へと入る。

 

昼間でもほの暗い空間は、ほかの教会と違って側廊がないからだろうか。外から眺めるより内部はさらに大きく感じられた。

 

―あ、やっぱり違うかたなんだ。

 

正面の主祭壇には「マグダラのマリアの歓喜」とよばれる像が置かれている。中央で手を拡げたマグダラのマリアを天使たちが囲むその彫像は、まるで白くやわらかい大理石を風がそっとなでたまま切り崩してきたかのようだった。

 

美しい!

 

何の予備知識もないままにみれば、これが聖母マリアなのかマグダラのマリアなのかわからなくても不思議ではない。

 

でも―。

 

ひざまずいて熱心に祈りを捧げるふたりの観光客の後ろから、じっと像を見上げて思う。

 

―やっぱりこれは聖母マリアではないってわかる。だって発しているものが違うもの。

 

比較対象を得てはじめて、それそのものが持つ特徴を知ることがある。海外に出てはじめて、日本という国のよさもおかしなところも分かるように。

 

これまで見たマリア像は、「慈愛」を放っていた。母性。女性性が持つ「受け止める」力とその大きさ。それらをひっくるめたうえでのマリアさま、だったのだ。すべてを受け止める愛、包み込む愛。でも誤解を恐れずにいえば、それは「受動」の愛の姿だった。「静」の愛、とも言えるかもしれない。作者たちも、それを意図して作品をつくりあげてきたのだろう。

 

でもこのマグダラのマリアは―

 

「動」だ。神秘的ではない、ひとりの女性だった。