ハートは、愛(Love)を。
碇は、希望(Hope)を。
そしてクロスは、信仰(Faith)を―。
それぞれのモチーフが持つ意味、それは日本に帰ってから知ったことだ。わたしはクリスチャンではないけれど、「何かを信じることで生じる力」を信じている。それを信仰というなら―。
このカマルグクロス(カマルグ十字)が表すもの以上に大切なものって、あるだろうか?
―ハート、かぁ。
けれど、サン・マリー・ドゥ・ラメールにいたわたしはそんな詳細を知る由もない。ただただ、目の前にあるその見たこともないクロスに心奪われていた。見た瞬間に「これはわたしのものだ」と思ったその衝動だけはよく覚えている。
―こんな可愛らしいクロスがシンボルになっているなんて、マリアたちの街にぴったり。
このクロスのモチーフが売ってたら、いくら高くてもぜったい買って帰ろう、そう決心して教会の入り口をくぐった。
☆☆☆☆
程度の差はあれ、教会とは通常、その内部が明るいことはない。ステンドグラスが多用された教会であればそこから美しい光がなかにいるひとを照らしてくれるけれど、だいたいにおいて薄暗いのがデフォルトである。
けれど、これは―。
この教会はこれまで入ったどんな教会よりも内部が暗く、回遊しない空気とともに独特の空間をつくっていた。その昔、海賊やイスラムの民から街を守る要塞の役割を果たしていたというだけあって、外から侵入される危険性を極限まで排除している。入る光といえばはるか頭上にある小さな窓だけが頼りだ。
思ったよりもたくさんの人々がこの教会を訪れていた。ヒソヒソ声で会話を交わすグループを通り越して、ベンチに腰を下ろす。
「・・・・・・」
この頃には、わたしは自分の感受性が全開になるときの感覚をつかみかけていた。身体の肌表面すべてが、その場所の空気から「何か」を受け取る感覚。
不思議だ、日本ではOffになっている何かしらのスイッチがOnになっているとでもいうのだろうか。
もしもこれがときどき巷で耳にする「もともとヒトは誰だって不思議な能力―テレパシーとか―を持っていたんだよ。いまは退化しているだけで」といった類のものだとすれば、人間はいったいぜんたい、何と引き換えにこの力を封印してしまったのだろう。
―わたしは泣き出していた。
悲しいわけでもないのに。
ことばが胸に宿った。
「愛すると、追われる」。