「あ、わかった…」
7日間をそこで過ごしたら、
南仏に向けて出発するつもりでいた、パリ。
けれどこの街はわたしの想像を遥かに越えて楽しすぎて
―それはもちろん、旅行者目線でおいしい部分だけをきりとった
『パリ』だとわかってはいるけれど―
滞在8日目にしてようやくチホコさんに会えたときのことだった。
わたしはなぜ今回こうしてフランスに来たのか、
自分でもよくわからないけれど、
ここ最近ずっと、フランスに「行かなきゃいけない」とすら
感じていた理由がわかった気がした。
「わたし、今回の旅はマリアさまに会いにきたんだ」。
理屈じゃない。
『頭』ではない部分、自分の体のもっともっと下のほう、
『肚』や『胎』でわかった、と思った瞬間だった。
☆☆☆☆
最初に断っておくと、わたしはキリスト教徒ではない。
とくに信心深いタイプでも、たぶんない。
実家には仏壇も神棚もあり、
クリスマスにはケーキを食べるような「日本人あるある」の家庭で育ったし、
イエスとかブッダとかモハメッドとか、
すべてが八百万の神様のなかのひとりくらいに思っているフシがある(何かいろんな方面から猛烈に怒られそうだけど)。
それでもなぜか、昔からキリスト教には親近感のようなものを持っていた。
教義に心打たれたとか、絶対神がどうとか、
そういうところに近しさを感じているわけではまったくない。
信仰があついひとについては、
「あれだけ無条件に信じられるものがあるってしあわせだろうな」となかば羨ましく思ういっぽうで―揺るぎない拠り所があるってしあわせだもんね―、
その盲目ぶりを目の当たりにすると「おめでたいひとたちだな」とひそかに思わずにはいられない。
なのに。
なぜかわたしは10代の、それもローティーンの頃から、
「キリスト教」や「イエス・キリスト」や、
その周辺の諸々のことについて
いつも興味と関心と妙な親近感を持って遠巻きに眺めてきた。