旅って、ある角度からみたら非効率極まりないなとときどき思う。
時間もお金もたくさんかけてそんな遠いところ行くより、ワンシーズン分の洋服がほしいよ!
と、わたしもある時期、結構本気でそう思っていた。
けれど。
これだけテクノロジーが発達した世界でも、生身の自分が体験してはじめてわかることはやっぱり山ほど、ある。
Google earthで地球の裏側の名前も知らないストリートをつぶさに眺めることはできるけれど、その通りを歩いたときに漂ってくる不思議な(だいたい、日本ではかげないような)香りをこの鼻でかぐことはできない。街は陽気にざわついているのか、それともひっそりと静まっているのかを肌全体で感じとることもできないし、そこを行き交うひとびとがいったいどんな抑揚とリズムの言葉を互いに交わしているのか、旅行者の自分に対してどんな種類の視線をなげかけてくるのか―それともまったくスルーされるのか―はその場に体を運んでみないことには絶対にわからないのだ。
だから、それらをいちいちこの目と鼻と耳とからだ全部で確かめたいという欲求を満たすこと、そしていざそこに立ったとき、自分のなかにいったいどんな想いや感情がわき上がるのかをただ知りたいと欲することが、旅をする理由なのだと思う。
☆☆☆☆
で、それこそパリの情報なんて、本や雑誌やインターネットや映画や、この街が大好きだというひとが語る言葉でこれまでさんざんインプットされてきたけれど、それでも実際に来てみてはじめて気づいたことがたくさんあった(ワインてこっちで飲むと本当に味が違うんだ!とかね)。
何より驚いたのは、自分がこんなに美術館や教会に魅せられたことだ。
とくに、教会にはなぜか黙々と、一生懸命足を運んだ。一生懸命。
そして、「よくわかんないけど昔からキリスト教とその周辺に興味があった」わたしである。少しのあいだ住んでいたNYでは散歩がてらよく色んな教会を覗いていたし、その後シアトルに行ったときには敬虔なクリスチャンであった知人がいまから教会にいくというので頼み込んで一緒に連れていってもらったり、昨年の夏、ポートランドに行った際にも教会があれば入ってみてもいた。
でも、それらアメリカの教会で感じた空気とはまるで違うと思った。
わたしがいくばくかは成長したり、ものごとの受け取りかたが変わったからだろうか。
ある日の夕方、サン・シュルピス教会に行ったときのことだ。