(写真は泊まったホテルです。素敵でしょ!)
20代の頃のわたしは、当時大流行していたSex and the Cityにそれはもうどっぷりとはまっていた。NYに暮らす30代の女性たちのキャリア、友情、恋愛…。セントラルパークも日曜日のブランチもエンパイアステイトビルもとてもとても遠い世界だったあの頃、彼女たちのあのスパイスのきいた英語が聞きとりたくて、日本語と英語の字幕を何度も切り替えながら英語を勉強したっけ。当時はかっこいい年上のおねえさんだったキャリーも、自分自身が劇中の彼女と同じ年齢になったいまは、昔仲のよかった友だちのことを思い出すような気分でときどきDVDを観かえす。
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サン・マクシマムのバシリカの隣、教会とつながる修道院を改装したホテルにチェックインしたわたしは、ひとりでは広すぎる部屋に感嘆の声をあげた。
「わー、受付の彼女に感謝だな..」
じつはさかのぼること10分前、最初に鍵を渡された部屋に行ってみるとなんと清掃が終わっていないではないか。そのことを告げに戻ったフロントで、20代とおぼしき女性スタッフ―きれいなアメリカ英語を話していた―が、ワンランク上の部屋を取り直してくれたのだ。
「ごめんなさいね、じゃあこっちの部屋に行ってみて。もちろん、予約した部屋と同じ値段でいいから安心してくださいね」
自分があとふたりいても余裕の大きなベッド、バスルームに置かれたふかふかのタオルとバスローブ、窓から見える南仏の家々は、バシリカを訪れて少し沈んでいたわたしの気持ちを持ち上げるのにじゅうぶんだった。素敵。窓をあげて夕方のひんやりした空気を思い切り吸い込む。
お腹すいたな…。
昼間つまんだサンドウィッチはとっくの昔にあたかたもなく消化されていた。普段はホテルに荷物を置くとすぐに街へ散歩に出るわたしも、今夜はそうやっておいしいレストランを探す元気がない。せっかく素敵なホテルだもの、今日はここでごはんを食べよう。シャワーも浴びよう。2人用に用意してあるタオルだってたくさん使っちゃおう。
現金なものだ。世俗的なわたしは世俗的なものですぐ元気になる。
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修道院を改装した、というと質素な雰囲気を連想させるけれど、歴史ある建物を活かしたそのホテルはとても美しくシックだった。廊下やロビー、石造りの階段、こっそり覗いたホテル内のチャペルも見ているだけで心が弾む。ホテル内をこそこそ探索しながら、1階の回廊部分―回廊!わたしは本当に回廊が好きだ―を進み、レストランに辿りついた。
ゴシック式の天井、石造りの壁、落した照明、静かにディナーを楽しむ年配の上品なご夫婦たち―。まるで異次元にワープしたようだ。
ここで一気にドアをあけないと躊躇してしまう。わたしはまるで何でもないようなそぶりで出迎えてくれた背の高いギャルソンくんに「ひとりのテーブルを」と告げた。
さぁさぁ、こんなときほど背筋を伸ばして堂々と。そこにいるひとみんな、そしてその空間ぜんぶを味方にするつもりでゆっくり歩くのだ。内心のドキドキを気取られないように―。
通されたテーブルにつき、渡されたメニューをひらく。南仏だもの、ロゼワインを飲もう。あとは魚…魚が食べたいな。
問題はフランス語のメニューだ。Poisson が魚なのはわかる。けれど、後ろにつづく魚の種類も味付けや調理法もさっぱりわからない。
ギャルソンくんにヘルプを求めるも、わたしのカタコトのフランス語も通じず、彼は英語がわからない。どうしたものかと思ったそのとき・・・。
「あ、ドラドだ!」
ドラドー。Sex and the CityのSeason 6で出てきたあの魚だ。あれはたしかVOUGEの鬼編集者、イニドとキャリーがランチをしていたときの話。イニドがキャリーにパーティーで同伴してくれる男性を紹介して、と頼んでいたシーン。
NYはどこでもカップル、シングルはやりづらいわ、と言っていたイニドがドラドを頼もうとしたら、「ドラドは大きいので1人では無理ですよ」とウェイターに言われて「この街は魚もひとりじゃ食べられないのよ!」と憤慨していた・・・あのドラド!
「このドラドは、ひとりでも食べられますか?」
身振り手振りでギャルソンくんにたずねると、大丈夫だという。食べてみよう。
はたして出てきたドラドは、グリルされた切り身のサーモンのような魚だった。なんだ、ひとりで食べられるサイズ感にしてくれれば、何の問題もないってことか。
拍子抜けしたわたしは、中世にタイムスリップしたような静かな空間で思わず笑い出しそうになる。大好きで何度もみたあのTVドラマのワンシーンが、10年以上たってこんなふうにわたしの人生に登場してくるなんて。
素敵なご夫婦たちがディナーを楽しむテーブルを見渡しながら、わたしはひとり、ゆっくりとそのひと皿を味わった。
―イニド、ドラドはひとりで食べられるよ。
ひとつのお皿を分け合えるひとがいることは、それだけで祝福された幸福だ。でもひとりで向き合う未知のひと皿は、それだけでもう小さなアドベンチャーなんだ。
デザートまでしっかり平らげて、ゆっくり眠ろう。明日はサント・ボームのあの洞窟に行くのだから。