炵mĂ^Cg

アーカイブ

「恥」をつかうなら「個性」なんていうな

 

お正月、親戚の集まる席で印象的なできごとがあった。

 

2歳になる男の子がおかあさんに抱っこしてほしい、と甘えたとき、その子の祖母にあたる年配の女性が「わー、もう2歳になるのに恥ずかしい!」「そんなこと言ったら恥ずかしいよ!」と大きな声でその子に言ったのだ。あれは相手が子どもだったし、指摘した内容がかわいいものだっただけで、その女性の言動ははっきりと「相手に恥をかかせる」ことを意図したものだったと思う。

 

どうして大人は子どもにだって自尊心があるということを忘れてしまうんだろう?あぁ、こんなふうにしつけられたらひとの目を気にする子になって当然だよなぁと思うと同時に、せめてその女性が同じ口で「個性を伸ばしなさい!」なんて真逆なことをのちのち彼に言い出さないようにと願った。

 

☆☆☆☆

 

「恥」という感情は、ひとを「みんなと同じ」に向かわせる機能がある。みんなができている(と本人が思っている)ことが自分にはできない、と思えば情けなくみじめな気持ちになるし、何とかみんなと同じレベルに達しようとする(が、できないこともある)。そして逆にどうやら自分だけこれができる、何だか自分だけみんなと違う、というときも必死でそれを隠そうとするひとがいるが、そのどちらもが「恥」のしわざなのだ。悲しいのは、その「足りないところ」や「突出しているところ」、「ひととは違うところ」こそがそのひとの個性なのだということに、多くのひとが気づかないということだろう。

 

☆☆☆☆

 

日本では「〜すると(or〜できないと)恥ずかしいよ、笑われるよ!」と子どもをしつけることが珍しくないけれど、そろそろそういうのやめようよ、と思う。たしかに日本人の団結力や統率力には目を見張るものがあって、それはこの「恥」を使った「みんなと同じ」戦法のおかげだったのかもしれないけれど、だったら「自分らしく」とか「個性を伸ばして」とか「ひとの目なんて気にするな」なんて言っちゃだめでしょう。そんなの完全なダブルメッセージだもの。「自分らしく生きる」というのはつまり自分の軸、自分のモノサシを持って生きるということだけど、ひとからどう思われるか、どう見られるかという他人軸で育ってきた人間には、それが一朝一夕にできるものではないのだから。

 

※「恥」について学ぶにはBrené Brown(ブレネー・ブラウン)のTEDトークや書籍がオススメです。TEDトークのスピーチは抜群のうまさ、おもしろさでスピーチ英語の勉強にもぜひ。

書かなくなった手紙

 

数年前から、Room to Readという非営利団体の活動に共感してときどき寄付をしている。彼らがCool(かっこいい)だなと思う点は色々あるけれど、設立者であるジョン・ウッド氏が最初の著書(※)のなかで、「寄付を募る団体にありがちな『ガリガリに痩せた子どもたちがこちらを見つめる』ような写真を見てひとびとは罪悪感からお金を払うかもしれないが、それよりは子どもたちの未来や希望にお金を出したいと思うのではないか」というようなことを書いていたことが心に残っている。

 

ひとにとって「罪悪感を刺激される」というのは、もちろん気持ちのいいものではない。その罪悪感から逃れるために何らかのアクション(上記の例でいえば寄付など)を起こしてもそれが継続しにくかったり、本人がちっともハッピーじゃないのはその出発点が「罪悪感」だからだ。たとえそのアクション自体はとても素晴らしいものだったとしても。

 

☆☆☆☆

 

わたしは亡くなった祖母に以前はよく手紙を書いていて、けれどあるときそれをぴたりとやめてしまった。それは純粋に祖母を想う気持ちからというより、自分の「罪悪感」から書いているものだと気づいてしまったから。祖母も認知症が進み、もうあまりわたしの手紙を待ち望んだり大切にしたりという風じゃなかったということや、もう子どものように思ったことを口に出すようになっていた彼女の、悪気のないひとことで不本意に傷ついてしまったというのもその決断に拍車をかけた。

 

幼少期の親や周囲のおとなの口癖なんかが、子どもの思考パターンのフレームを決める。幼い頃から祖母の苦労話をよく聞かされて育ったわたしは(※)、いつのまにか「祖母はかわいそうなひとだ」という強烈なインプットと「自分は何もできなくてごめんなさい」という勘違いが醸成がされてしまったらしい。そのかわいそうな祖母に何かしてあげたくてーというより、しないと悪い気がしていたのかもしれないー手紙を書いたりプレゼントを贈っていたのだ。悲しいけれど、いま思うと出発点は「罪悪感」だった。だからどんなに祖母が喜んでくれても、わたしはいつも嬉しいというより、泣きたいような気持ちだったのだろう。

 

以来、何かをするとき、それが「愛」からくるものなのか「怖れ」からくるものなのかをときおり自分の胸に聞くようになった。それがどちらも表面的には同じ行動でも、自分が受け取るものがまったく違うから。たとえば純粋に相手を想ってあたたかい言葉をかけるのと、相手に嫌われたくなくて言葉をかけるのとではその行動自体が同じでも自分の見える景色はまったく異なるということだ。わたしがかつて手紙を書くたびに祖母がよろこんでくれても、この胸はいつもひっそりと晴れることがなかったように。

 

「罪悪感」からではない、ただ純粋に「愛」から書いた手紙を出す前に祖母は逝ってしまったけれど、いまはただ記憶のなかで少し若返った祖母に笑って話しかけている。おばあちゃん、確かにすごく苦労したけど、楽しいこともあったでしょ。それにいつもどこかでごめんねと思ってたけれど、もう謝ったりしないよ、だってわたし別におばあちゃんに悪いことしてないもん、と。

 

「マイクロソフトでは出会えなかった天職 ぼくはこうして社会起業家になった」 ジョン・ウッド著

※ひとって、ハッピーなことより苦労したことを覚えているものです。で、それを語るのって本人にとってはある種のエンタメのようなものだと思うのですが、子どもはそれがわからず何度も何度も「かわいそう」な話としてインストールしちゃったのですね。

 

ゲシュタルトの祈り

 

わたしは以前、母とのあいだに感情的な境界線が確立できていなかった。母の悲しみ(それも自分が想像したものでしかないのだが)を同じように感じ、苦しみ、何もできない自分にずっと罪悪感を感じていた。それが発展したのか何なのか、わたしはひとの悲しみにとても敏感だった。誰かが悲しんでいるとこちらまで苦しくなり、いてもたってもいられなくなるのだ。それは「そのひとの悲しみに寄り添う」という段階を越えて「自分も同じようにその悲しみを体験してしまう」という状態で、一時期は本当に苦しめられた。

 

「相手との問題に境界線をひく」という概念(※)を知ってからは、とてもラクになったように思う。これは一見つめたい態度のようにとられることもあるのだけれど、そうではない。相手が乗り越えるべき課題まで自分が背負う必要はないし、それは相手をその力がない者として弱くみているという意味でもあるからだ。そして何より、相手に自分の望むように在ってほしいというその期待は、本当はやさしい顏をした「コントロール」でもあるから。わたしたちにできることは「寄り添うよ。そしてできることがあるならするよ、けれどこれはあなたの課題だよ」と示すことなのだ。それはときに一緒になって感情の沼に入るよりはるかに難しい(冷たい人間だ、と誤解される可能性も含めて)。

 

日本人が外国人が、とひとくくりにすることほど安易なことはないけれど、それでも日本人は同質的な文化だからか、やたらひととの境界線を侵入して騒ぐひとが多いように思う。「それ、あなたに関係あるの?」とよく思う。裏を返せば、そういう境界線のあいまいさが助け合いの精神や日本人の持つ長所にもつながるのかもしれないけれど。

 

そうなのだ。親しいひとどうしや大切なひとどうしはこの境界線のひきかたが難しい。それが例えば恋愛の醍醐味でもあり家族の意味でもあるのだろうが、知らぬまに自己犠牲のポジションに入りがちなひとは自覚的に「境界線」をひく練習をするといいだろう。それは利己的な行為ではなく、お互いが成熟した者どうしであるリスペクトの証でもあるから。「誰かのために生きる」というのは一見美しいが、それが「犠牲」からなのか「息をするように自然なこと」なのかでまるで意味が異なることを、いつも忘れないでいたいと思う。

 

〜ゲシュタルト療法(※)の創始者、フレドリック・パールズの詩〜

Ich lebe mein Leben und du lebst dein Leben.

私は私のために生きる。あなたはあなたのために生きる。

Ich bin nicht auf dieser Welt, um deinen Erwartungen zu entsprechen –
私は何もあなたの期待に応えるために、この世に生きているわけじゃない。

und du bist nicht auf dieser Welt, um meinen Erwartungen zu entsprechen.
そして、あなたも私の期待に応えるために、この世にいるわけじゃない。

ICH BIN ich und DU BIST du –
私は私。あなたはあなた。

und wenn wir uns zufallig treffen und finden, dann ist das schön,
でも、偶然が私たちを出会わせるなら、それは素敵なことだ。

wenn nicht, dann ist auch das gut so.
たとえ出会えなくても、それもまた同じように素晴らしいことだ。

 

※「境界線(バウンダリ―ズ)」ヘンリー・クラウド、ジョン・タウンゼント著

ゲシュタルト療法