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ゲシュタルトの祈り

 

わたしは以前、母とのあいだに感情的な境界線が確立できていなかった。母の悲しみ(それも自分が想像したものでしかないのだが)を同じように感じ、苦しみ、何もできない自分にずっと罪悪感を感じていた。それが発展したのか何なのか、わたしはひとの悲しみにとても敏感だった。誰かが悲しんでいるとこちらまで苦しくなり、いてもたってもいられなくなるのだ。それは「そのひとの悲しみに寄り添う」という段階を越えて「自分も同じようにその悲しみを体験してしまう」という状態で、一時期は本当に苦しめられた。

 

「相手との問題に境界線をひく」という概念(※)を知ってからは、とてもラクになったように思う。これは一見つめたい態度のようにとられることもあるのだけれど、そうではない。相手が乗り越えるべき課題まで自分が背負う必要はないし、それは相手をその力がない者として弱くみているという意味でもあるからだ。そして何より、相手に自分の望むように在ってほしいというその期待は、本当はやさしい顏をした「コントロール」でもあるから。わたしたちにできることは「寄り添うよ。そしてできることがあるならするよ、けれどこれはあなたの課題だよ」と示すことなのだ。それはときに一緒になって感情の沼に入るよりはるかに難しい(冷たい人間だ、と誤解される可能性も含めて)。

 

日本人が外国人が、とひとくくりにすることほど安易なことはないけれど、それでも日本人は同質的な文化だからか、やたらひととの境界線を侵入して騒ぐひとが多いように思う。「それ、あなたに関係あるの?」とよく思う。裏を返せば、そういう境界線のあいまいさが助け合いの精神や日本人の持つ長所にもつながるのかもしれないけれど。

 

そうなのだ。親しいひとどうしや大切なひとどうしはこの境界線のひきかたが難しい。それが例えば恋愛の醍醐味でもあり家族の意味でもあるのだろうが、知らぬまに自己犠牲のポジションに入りがちなひとは自覚的に「境界線」をひく練習をするといいだろう。それは利己的な行為ではなく、お互いが成熟した者どうしであるリスペクトの証でもあるから。「誰かのために生きる」というのは一見美しいが、それが「犠牲」からなのか「息をするように自然なこと」なのかでまるで意味が異なることを、いつも忘れないでいたいと思う。

 

〜ゲシュタルト療法(※)の創始者、フレドリック・パールズの詩〜

Ich lebe mein Leben und du lebst dein Leben.

私は私のために生きる。あなたはあなたのために生きる。

Ich bin nicht auf dieser Welt, um deinen Erwartungen zu entsprechen –
私は何もあなたの期待に応えるために、この世に生きているわけじゃない。

und du bist nicht auf dieser Welt, um meinen Erwartungen zu entsprechen.
そして、あなたも私の期待に応えるために、この世にいるわけじゃない。

ICH BIN ich und DU BIST du –
私は私。あなたはあなた。

und wenn wir uns zufallig treffen und finden, dann ist das schön,
でも、偶然が私たちを出会わせるなら、それは素敵なことだ。

wenn nicht, dann ist auch das gut so.
たとえ出会えなくても、それもまた同じように素晴らしいことだ。

 

※「境界線(バウンダリ―ズ)」ヘンリー・クラウド、ジョン・タウンゼント著

ゲシュタルト療法

 


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