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彼女の横顔

 

そのときのわたしはなんだかとても参っていて、ずっと訊きたくて、でも訊けないと思っていた質問をたまらず電話口の向こうにいる母にぶつけた。

 

「おかあさんって、おとうさんのこと愛してたの?」

 

そのとき間髪入れずに母から返ってきたことばを、わたしはきっと一生忘れないだろう。

 

「愛してたよ、いまでも大好きなんだよ」

 

ーだけど、考えかたが違ったり、わかり合えなかったりでストレスがたまっちゃうんだけど。いまでも好きなんだよ。

 

・・・なんだ・・・。

 

そりゃあ、なんだかんだともう結婚して30年以上一緒にいるわけだし、夫婦のことは例え親でも外からはわからないことくらいわかってるし、でも、こんな質問をしたら「うーん、わからない」とか返ってくると思っていた。勝手に。

 

なんだ・・・愛してたんだ・・・。

 

わたしたち親子は生粋の日本人で、愛情表現が上手ではなくて、成長過程でもいまでも、家族のあいだで愛してるよなんてことばが交わされたことはない。

 

でも、なんだ、愛してたんだ・・・。

 

なーんだ!!

 

母本人から聞いたわけじゃないのに、わたしは自分たち姉妹がいるから別れられないとか、わたしたちがいたから苦労したんじゃないかとか、そういうことを思っていた。またもや、勝手に。

 

なんだ、愛してたんだ・・・。

 

泣きながらわたしは、自分がこんなにも、そのひとことを欲していたことに驚いていた。訊きたくて、聞きたくて、でも怖くて訊けなかったことー。

 

ーおかあさんは、おとうさんと出逢ってこのひとの子どもを生みたいと思ったんだよ。それに自分の育った家が嫌だったから、早く自分の家庭を持ちたかったの。だから、大好きなひとの子どもを2人も生めて、おかあさん、夢が叶ったんだよ。

 

泣き笑いしながらわたしは母に言った。なんだ、おかあさん、パッションのひとだったんだね。情熱で結婚したんだね。

 

「そうだよ、じゃなかったら、小姑3人もいて姑と同居の末っ子長男のとこになんてお嫁にきてないよー!」

 

笑いながら母はこたえた。

 

母は、わたしの母は、娘が思う以上に強いひとで、じつは情熱のひとで、恋と夢をどちらも叶えたひとだったのだ。

 

自分のカラダの一部分、小さくて、でもとても冷たくて固くなっていたある部分が、すーっと溶けていくようだった。なーんだ。それは拍子抜けしたような、あきれて笑ってしまうような。ついこないだどん底まで落ち込んでいた友人が、あっけらかんと持ち直した様子をみて肩を軽くぶちながらこう言うときの気分。なんだもう、心配して損したよー。

 

それは、例えるならわたしの存在それ自体を全肯定してもらったような感覚だった。愛し合ったふたりのあいだに生まれた、そう肚から感じられることがこんなにも我が身を軽くするなんて。

 

いま、母はまだ50代、そしてわたしは30代だ。きっとこの10年くらいが、お互いを「守る」もしくは「守られる」役割から自由な状態で、相手を知ることのできるいい時期だろう。それは、ひとりの大人として。おかあさん、と呼ばれる役割を持った彼女ではなく。

 

そうなのだ。わたしは、まだまだ「ひと」としての彼女を知らない。「母」というラベルをとったときの彼女の横顔を、これからもっと発見していきたいと思う。

「好きなことにしている」、と「本当に好き」は違うのだ

 

昨年の晩秋、思い立って身の回りの細々したものをイチから買いそろえた。もともと使っていたものがある上でのことなので、買いそろえた、というより一新した、というほうが日本語としては正しいかもしれない。

 

インテリアや食器類にさほどこだわりがないわたしは、いままでなんとなく食器は白でまとめていてーそこに引き出ものでもらった、”ベストではないけどワーストでもない”食器たちがまざるー、それは、雑誌や本やスタイルブックの写真から、「おぉ〜、素敵な暮らしって感じ!」とインスパイアされて揃えはじめたのが発端だった。そこには「シンプルに暮らす」とか「スタイリッシュ」とか、”オシャレ生活”への憧憬もあったように思うし、色んな色、柄を取り入れてなおかつおしゃれに暮らすなんて自分には難しすぎる、とはなから諦めていたフシもある。

 

けれど、久しぶりに「さぁ、本当に自分の好きな食器を買ってみよう」と思って出向いたお店でわたしが選んだのは、なんとまじりけなく真っ赤な丸いプレートと、赤みがかったオレンジのマグカップーしかもスマイルマークがついているーだった。

 

おい、どうした、と思った。おいどうした、わたし。

 

家に帰って冷静に考えてみるに、わたしはたしかにこういうカラフルでキッチュなものが好きだということだった。その傾向はときどきチョロりと発揮されて、なんてことはない文房具ーペンやハサミ、そして愛してやまないポストカードーでついこうした「カラフル&キッチュ」なものを買っていることがある。何より家にある白いお皿たちの存在を一切無視したときに出てきた選択肢がこの「赤いプレート」と「オレンジのマグ」だったことが自分でも想定外だった。

 

☆☆☆☆

 

「こういう生活がしたい」「こんなひとになりたい」という像を思い浮かべて、そこから逆算して洋服を買う。スタイルを決める。身の回りのものをそろえる。女性にはままあることだと思う。わたしもそうだったし、それは「なりたい自分」をつくっていくプロセスのようでたいそう楽しいことだった。

 

けれどその「スタイル」に固執してしまうと、日々のなかで本当は刻一刻と変わっている心の動きを「なかったこと」にしてしまう作用もあるのだとこのとき気づいた。「好きなことにしている」ものと「その瞬間瞬間、本当に好きなもの」は違うのに、「スタイル」に合わせてモノを買う。選ぶ。何より恐ろしいのは、そんな小さな「好き」をないがしろにしていると、際限なく感性のアンテナが弱っていくということだ。自分の「好き」や「嫌い」、「やりたい」「やりたくない」の感覚が鈍り、果てには何かにつけ「どっちでもいい」と言い出す。「とにかく好きなものに囲まれて暮らしたい!」と発作的に思って買ったプレートとマグを前に、あぁ、最近のわたし、そんな投げやりな感じだったな、としんみり思った。

 

シンプルな暮らしやスタイリッシュな暮らしも憧れるけれど、そうか、いまのわたしは「カラフル」で「キッチュ」なものがが欲しかったんだね、そんなものに囲まれて暮らしたかったんだね。そんな気持ちを「なかったこと」にしててごめんよ、と自分にそっと謝った次第です。

「恥」をつかうなら「個性」なんていうな

 

お正月、親戚の集まる席で印象的なできごとがあった。

 

2歳になる男の子がおかあさんに抱っこしてほしい、と甘えたとき、その子の祖母にあたる年配の女性が「わー、もう2歳になるのに恥ずかしい!」「そんなこと言ったら恥ずかしいよ!」と大きな声でその子に言ったのだ。あれは相手が子どもだったし、指摘した内容がかわいいものだっただけで、その女性の言動ははっきりと「相手に恥をかかせる」ことを意図したものだったと思う。

 

どうして大人は子どもにだって自尊心があるということを忘れてしまうんだろう?あぁ、こんなふうにしつけられたらひとの目を気にする子になって当然だよなぁと思うと同時に、せめてその女性が同じ口で「個性を伸ばしなさい!」なんて真逆なことをのちのち彼に言い出さないようにと願った。

 

☆☆☆☆

 

「恥」という感情は、ひとを「みんなと同じ」に向かわせる機能がある。みんなができている(と本人が思っている)ことが自分にはできない、と思えば情けなくみじめな気持ちになるし、何とかみんなと同じレベルに達しようとする(が、できないこともある)。そして逆にどうやら自分だけこれができる、何だか自分だけみんなと違う、というときも必死でそれを隠そうとするひとがいるが、そのどちらもが「恥」のしわざなのだ。悲しいのは、その「足りないところ」や「突出しているところ」、「ひととは違うところ」こそがそのひとの個性なのだということに、多くのひとが気づかないということだろう。

 

☆☆☆☆

 

日本では「〜すると(or〜できないと)恥ずかしいよ、笑われるよ!」と子どもをしつけることが珍しくないけれど、そろそろそういうのやめようよ、と思う。たしかに日本人の団結力や統率力には目を見張るものがあって、それはこの「恥」を使った「みんなと同じ」戦法のおかげだったのかもしれないけれど、だったら「自分らしく」とか「個性を伸ばして」とか「ひとの目なんて気にするな」なんて言っちゃだめでしょう。そんなの完全なダブルメッセージだもの。「自分らしく生きる」というのはつまり自分の軸、自分のモノサシを持って生きるということだけど、ひとからどう思われるか、どう見られるかという他人軸で育ってきた人間には、それが一朝一夕にできるものではないのだから。

 

※「恥」について学ぶにはBrené Brown(ブレネー・ブラウン)のTEDトークや書籍がオススメです。TEDトークのスピーチは抜群のうまさ、おもしろさでスピーチ英語の勉強にもぜひ。