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ジャンクフードとジャンクセックス

 

日本のテレビ番組をみた外国人が驚くもののひとつが、料理番組の多さだろう。以前、英会話スクールで働いていたときの同僚たちにも何度か言われたし(「『わー、おいしー!』って他人が食べるとこみて何が楽しいの?」)、とあるフランス出身の女性が書いた本でも似たようなことが指摘されていた。おもしろいと思ったのは、彼女が日本人、とくに日本人の女性はセックスへの欲求を食欲に転化してるんじゃないかというようなことを言っていたこと。

 

その後、「夜中にチョコレートを食べる女性たち」(※1)という本を読んだときに妙に納得した点があった。脳のなかには『欲求』を司る部分があり、そのなかの『性中枢』と『満腹中枢』は隣合わせなのだという。そして女性はその距離が男性より短いため、性的に満たされると食欲も落ち着く(そして逆もしかり)。その本で著者は、「性の貧困」が一部の女性たちを「食の快楽」に走らせているのではないかと推測していて、それが本当だとすれば、前述のフランス人女性の言っていたことはあながちぶっとんだ話ではなかったのだ。この本のすべてに賛同するわけではないけれど、わたしはこの「性の貧困」と「食の快楽」、一理あると思う。

 

考えてみれば、「食」と「性」はおなじような文脈で理解することができる。どちらも最もシンプルに言ってしまえば、生命維持としての「欲求」だ。その1点だけを満たそうとするならジャンクフードで食欲を満たしてもいいし、ジャンクセックスで性欲を満たしても目的は達成される。より「快楽」を求めるなら新しいもの、珍しいもの、刺激の強いものー己の好奇心を満たすもの―を追求することもできるだろう(快楽には「慣れ」という敵がいるから、このスパイラルにはまると「もっともっと」が避けられないけれど)。

 

そしていっぽうで、どちらもフルコースのように楽しむこともできる。手間ひまかけてつくられた料理を気の置けない仲間と会話しながら味わうことと、相手と感情的に繋がった心のこもったセックスは、どちらも自分の五感と感性、コミュニケーション能力を全開にして堪能するという意味ではまったく同じものだ。それはもう「欲求」や「快楽」の範囲ではなく「ゆたかさ」を語る領域だろうと思う。

 

ただ単純な「欲求」としての性欲を否定するわけではないし、「快楽」としての性の楽しさを全否定するわけではない。けれど、それがジャンクなものとしてもフルコースなものとしても成り立つほど振れ幅が大きなものだということ、そしてこの社会ではそのたやすい「快楽」の部分だけが刺激的なかたちで取りざたされることが多いのだと、思春期以前の子どもたちに大人が真摯に伝えることは実はとても大切なことなのではないかと最近とみに思うようになった。いまの日本では、溢れ返った情報の嵐のなかに子どもたちを丸腰で置き去りにするようなものだ。性をーそれは自分の性、性的志向(※2)ということも含めー受け入れるということは、すなわち生をまるごと受け入れることにほかならないし、性をタブー視せずにトピックとしてテーブルの上にのせるということ・のせてもいいということは、後々、ひとを「性の貧困」から「食の快楽」に走らせるようなツイストした事態にならないのではないかと思う。

 

わたしたちはもはや誰もその全貌がわからないほどに高度に発達した世界で生きる社会的な生きものだ。志を語り、改革を語り、ジレンマや迷いを抱えつつも、理想のために行動する(し、しないこともある)。けれど、シンプルな場所にまで立ち返れば、その基本的欲求ー食欲、性欲、睡眠欲ーがゆたかさに満たされることこそ、ゆたかな人生の土台となるのではないかと思う。そこにときどきジャンクなものが混じり、快楽の要素が顏を出すことだってあるだろう。けれど、何よりそのひたひたと満たされたゆたかさの土台が、つまるところそのひとの持つ魅力の土台でもある気がしてならない。

 

ゆたかさの土台とひととしての魅力の土台、日本の女性たちはそこにもっと自覚的になるほうが、より健やかな魅力溢れるひとが増えるのでないかとにらんでいる。キラキラと、やたら色んなものを盛るよりも、よほど。

 

※1「夜中にチョコレートを食べる女性たち」幕内秀夫

※2   性的”嗜好”ではなく”志向” 。性的志向とは自分の意志に関係なく心がそちらに向かう、という意味だとLGBT講座で教えてもらいました。LGBTについても、もっとオープンに話されるべきトピックのひとつだと思います。

自由と責任の嘘

 

世の中には誰が言いはじめたのかわからないけれど、なんとなくみんなでそれを当たりまえのこととして信じている言葉がある。洗脳だと思う。

 

「若いときの苦労は買ってでもしろ」とかね。あるとき「若いときの苦労は売ってでもしない」と言ってのけたひとがいて(そして彼は自由きままに成功しているひと)、それがあまりにも説得力があって、以来わたしはこの類の言葉を無条件に受け入れるのをやめた。

 

だって言葉はいつもそれを発したひとの意図が込められているのだ。そのひとの価値観をもとに、そのひとが信じる善きもののために。だからその価値観を採用するかしないか、その善きものを自分も同じように善きものとするかは自分で決めていいのだ。

 

そうやって「さもあたりまえ」の顏をして存在するいろんな言葉を吟味した結果、「自由には責任がともなう」というのも、いまでは嘘だと思っている。だって仮に不自由な生きかたを選べはそこには責任が発生しないのか?そんなわけない。そこにはまずその生きかたを「選んだ」という責任がある。(余談だが、何かにつけ不満が多いひとは、この「自分で選んだ」意識がないからだ)

 

じゃあ自由と引き換えに差し出すものがないのかといわれれば、そうではない。昨年ベストセラーとなった『嫌われる勇気』(※)のなかで哲人は『自由とは、他者から嫌われることである』と言っているけど、つまりはそういうこと、わたしたちが自由を選ぼうとするとき、引き換えに差し出さなければいけないのは安心感なのだ。それも「愛されている」というあたたかい安心感ではなく、「嫌われていない」という消極的な安心感。ひとは誰だってナイスでいたいし、好きこのんで嫌われたくはないから、その安心感を手放すのはとても怖いことなのだけど。

 

☆☆☆☆

 

「自分の自由な言動には、誰かの自由な言動が返ってくることがありますよ。それを知っておきましょう」というのがいまのわたしが思う自由の但し書きだ。そして、実際に誰かの自由な反応―それは怒りかもしれないし反対かもしれない―が起こったそのとき戦うのか、納得できる妥協点を探ろうとするのか、受け入れるのかスルーするのかそれはまた先の話だ。最初は、たんに自分の言動が周りを刺激してそこに至りうると知っておくこと。個人としては、それだけで十分だと思う。

 

「自由には責任がともなう」なんて、うそうそ。不自由にしてれば責任とらなくてすむわけじゃないし、結局は誰だって自分の人生の責任は自分でとるしかないのだから。

 

(※)「嫌われる勇気」岸見一郎/古賀史健 著

「宿命」を越えて、「運命」を生きよ

 

8月15日の朝、父方の祖母が亡くなった。94歳だった。

 

お盆で帰省していたわたしを、8月14日、父と一緒に地元の空港まで送った帰りの車中で急に胸が苦しいと訴え、入院。心筋梗塞だった。けれどそのまま集中治療室に入れられた祖母は、いったんそこで持ち直す。驚異の94歳だ。手術を受ければ回復するだろうとまで言われ、父は迷うことなくそれを決断した。もちろん年齢のこともあり100%の可能性ではなかったけれど、父は祖母にどうしても生きていてほしい理由があったから。

 

何も知らぬままのんきに福岡に着いたわたしが連絡を受けたのは、この一連のできごとが落ち着いた、14日の夜の時点。おばあちゃん子だったわたしは驚きと動揺とで電話口で大泣きしたけれど、ここ数年ちょこちょこ体調を崩したり入院する度にちゃんと元気になって帰ってきた祖母のこと、今回も大丈夫だろうと思ってしまった。さすがに今日帰ってきてすぐまた実家に戻ることはできない、手術の際にまた会いにいこうと決めてとりあえずその日は眠りについた。いま思えば、完全に自分の希望的観測だった。

 

翌15日朝、医師の回診の際、祖母は顔色もよく意識もあったという。けれどその後、ほんの少し医師と看護師が目を離した際に急変。ふっと一瞬で意識が遠のき、祖母は帰らぬひととなった。最期は心臓破裂、苦しむ間もなかったでしょう、と医師はいう。入院の諸準備で、家族が家に帰っているあいだのことだった。

 

こんな日がいつ来てもおかしくないのだと、家族、親戚、誰もが心のどこかで思ってきた。90歳を過ぎれば天寿なのだとも。

 

けれどそれでもなお、最期のその瞬間、誰もそばにいてあげられなかったことが残念でただただ悲しい。手を握ってあげられなかったこと、子や孫みんなで見守ってあげられなかったこと、そしてもっといえば、思い返せば最期となってしまった日々、「もう少し自分がなんとかしていれば」「あのときこうしていれば」「もっと会いにいけばよかった」「どうしてもっとやさしくしなかったんだろう」と周囲にいた誰もが思い、みんな少しずつ自分を責めた。そんなこと思う必要はない、ともちろんひとはいうのだけれど。

 

☆☆☆

 

1921年、茨城の田舎の農家で生まれた祖母は実の母親が彼女を生んだすぐ後に亡くなり里子に出されたという。6歳のときに実の父親が迎えに来たけれど、走って逃げちゃったんだ、と昔語りで聞いたことがある。そのままその実の父親の手をとり一緒に帰っていたら、あとに続く彼女のストーリーも違うものになっていただろうか。いまではもちろん、知る由もない。

 

里子に出された家では義理の妹たちやそこにいた家族の世話に追われ、12歳で奉公に出されたという。奉公先では毎朝、川の水で洗濯をしながら、眠くて眠くて居眠りをしたこと、夜寝る前は手を合わせて生みのお父さんお母さん、育てのお父さんお母さんにおやすみなさいを言ったこと。リアルおしんとしか思えない話を何度も聞いた。おばあちゃんは小学校も出てないんだよ、もっと勉強したかったと、子どものわたしによく言っていたっけ。

 

もちろん、70年前のあの戦争だって経験している。B29が海辺の工場街を襲うとき、まだ乳飲み子だった長女を背中におぶい、「空襲警報発令!空襲警報発令!」と近所じゅうにふれてまわったとよく教えてくれた。

 

4人の女の子と1人の男の子を生んだけれど、3歳の次女を病気で亡くした。40代で未亡人となり、そこから、まだ高校生だった末の長男—わたしの父—を育てあげ東京の私立の大学までいかせた。

 

―どんな歴史書にだって決して名前が残ることはない、生れ落ちた場所と時代に翻弄されながら必死で生きた、祖母の人生。

 

子どもの頃は、おばあちゃんはなんて大変な人生を生きてきたんだろう、かわいそうだとばかり思っていた。

 

でもね。

 

彼女は、奉公先を出たあと働いていた工場で、大好きなひとと出逢った。「ハンドル部にいい男がきた」と聞いて、友だちと見にいったんだ〜、と子どもたちにも話さなかったことを、なぜか80過ぎてから孫のわたしに教えてくれた。マラリアで寝込んだおじいちゃんを、3日3晩看病して、ゲットしたんだよね。浮気性で大酒飲みだったおじいちゃんでさんざん苦労したと言ってたけど、それでも大好きだったんだよね。おじいちゃんが天国にいって40年以上経ってもなお、いつもどこへでもその写真を持ち歩くほどに。

 

子どもだって、何だかんだみんな立派に育ってる。孫だってひ孫だってみんな元気。50歳を過ぎてようやく親孝行に目覚めた息子(わたしの父)と、ここ数年は週末の度にドライブしてた。嫁姑だって昔はよくバトル勃発してたけど、もうこの10年で誰よりも一緒にいたのは娘でも息子でもなく、その嫁(わたしの母)になってたね。軽度の認知症になっていたここ最近では、身近に母の姿がいないと不安になってよくその姿を目で探してた。いろんな場面でサポートは必要になっていたけれど、それでも最期まで自分の足で歩き、好きなお肉をみんなと同じようにムシャムシャ食べ、家で過ごせたのってすごいことだよ。

 

たしかに、苦労の連続だった祖母の人生だ。それでもいまわたしは、彼女がかわいそうだったとは思わない。だってそれを決められるのは、おばあちゃん本人だもの。ひとは大変だったことをよく覚えているものだ。けれどきっと、それ以上に日々の生活のなかで小さなしあわせもたくさんあったはずなんだ。たとえそれらがすべて記憶の彼方に忘れ去られていたとしても。それは決してなかったことにはならない。

 

―おばあちゃん。

 

でもどうして最期に、待っていてくれなかったの?みんなおばあちゃんのこと、見送りたかったんだよ。「誰にも迷惑かけないでぽっくり逝くんだぁ」ってよく言ってたけど、本当にひとりで逝くことないじゃない。

 

おばあちゃん。

 

どうしてわたしは、最期おばあちゃんが見送ってくれたときハグしなかったんだろう。「またね」って手をふっただけになってしまったよ。

 

おばあちゃん。

 

生みのおかあさんの顏を1度でいいから見てみたいといってたおばあちゃん。けれど最期はあんなに葛藤があった育てのおかあさんと同じ94歳の8月15日に亡くなるなんてね。

 

おばあちゃん。

 

ずっとおばあちゃんの面倒をみてたおかあさん(わたしの母)が入院して1週間後に亡くなったおばあちゃん。「自分がいたらえみちゃん(わたしの母)が大変だから」って逝ったんじゃないかって、おとうさんすごく気にしてたよ。あのおとうさんがずっとずーっと泣いてたよ。そんなこと、ないよねぇ。

 

おばあちゃん。

 

わたしね、昔は誰かが亡くなったらそのひとのぶんまで生きようって思ってきたの。それが、供養になるって。

 

でもね、わたしおばあちゃんのぶんまで生きようとは思わないよ。だって、おばあちゃん自分の人生生ききったもんね。わたしなんかが背負う必要がないほどに、最期まで生きた。本当に、すごかった。

 

―わたしたちがみなそうであるように、祖母は生まれた家や時代や環境を選べなかった。それは変えられない「宿命」だ。

 

けれど、彼女はその後自分で「運命」をつくった。自分で働き、最愛のひとと出逢い結婚し、子どもを育てあげ、その後の人生も生ききった。そこにはつねに「宿命」を越えた彼女の「意志」があった。

 

わたしは、わたしはどうだろう。自分の生まれた時代や家や環境という「宿命」を越えて「運命」をつくっているだろうか。そうやって精一杯生きているだろうか。

 

90年以上前に生まれた女の子が、ここまで魅せてくれたんだもの。これからはわたしが、いったいどんな景色が見れるのか、どんな場所へ辿り着けるのか、この一生を通じてやってみようと思う。

 

ね、おばあちゃん。だからそこから楽しんでみててね。

 

※このカテゴリ(Mind and Heart)にあまり関係のない内容ですが、ご容赦ください。