「好きなことにしている」、と「本当に好き」は違うのだ

 

昨年の晩秋、思い立って身の回りの細々したものをイチから買いそろえた。もともと使っていたものがある上でのことなので、買いそろえた、というより一新した、というほうが日本語としては正しいかもしれない。

 

インテリアや食器類にさほどこだわりがないわたしは、いままでなんとなく食器は白でまとめていてーそこに引き出ものでもらった、”ベストではないけどワーストでもない”食器たちがまざるー、それは、雑誌や本やスタイルブックの写真から、「おぉ〜、素敵な暮らしって感じ!」とインスパイアされて揃えはじめたのが発端だった。そこには「シンプルに暮らす」とか「スタイリッシュ」とか、”オシャレ生活”への憧憬もあったように思うし、色んな色、柄を取り入れてなおかつおしゃれに暮らすなんて自分には難しすぎる、とはなから諦めていたフシもある。

 

けれど、久しぶりに「さぁ、本当に自分の好きな食器を買ってみよう」と思って出向いたお店でわたしが選んだのは、なんとまじりけなく真っ赤な丸いプレートと、赤みがかったオレンジのマグカップーしかもスマイルマークがついているーだった。

 

おい、どうした、と思った。おいどうした、わたし。

 

家に帰って冷静に考えてみるに、わたしはたしかにこういうカラフルでキッチュなものが好きだということだった。その傾向はときどきチョロりと発揮されて、なんてことはない文房具ーペンやハサミ、そして愛してやまないポストカードーでついこうした「カラフル&キッチュ」なものを買っていることがある。何より家にある白いお皿たちの存在を一切無視したときに出てきた選択肢がこの「赤いプレート」と「オレンジのマグ」だったことが自分でも想定外だった。

 

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「こういう生活がしたい」「こんなひとになりたい」という像を思い浮かべて、そこから逆算して洋服を買う。スタイルを決める。身の回りのものをそろえる。女性にはままあることだと思う。わたしもそうだったし、それは「なりたい自分」をつくっていくプロセスのようでたいそう楽しいことだった。

 

けれどその「スタイル」に固執してしまうと、日々のなかで本当は刻一刻と変わっている心の動きを「なかったこと」にしてしまう作用もあるのだとこのとき気づいた。「好きなことにしている」ものと「その瞬間瞬間、本当に好きなもの」は違うのに、「スタイル」に合わせてモノを買う。選ぶ。何より恐ろしいのは、そんな小さな「好き」をないがしろにしていると、際限なく感性のアンテナが弱っていくということだ。自分の「好き」や「嫌い」、「やりたい」「やりたくない」の感覚が鈍り、果てには何かにつけ「どっちでもいい」と言い出す。「とにかく好きなものに囲まれて暮らしたい!」と発作的に思って買ったプレートとマグを前に、あぁ、最近のわたし、そんな投げやりな感じだったな、としんみり思った。

 

シンプルな暮らしやスタイリッシュな暮らしも憧れるけれど、そうか、いまのわたしは「カラフル」で「キッチュ」なものがが欲しかったんだね、そんなものに囲まれて暮らしたかったんだね。そんな気持ちを「なかったこと」にしててごめんよ、と自分にそっと謝った次第です。

「恥」をつかうなら「個性」なんていうな

 

お正月、親戚の集まる席で印象的なできごとがあった。

 

2歳になる男の子がおかあさんに抱っこしてほしい、と甘えたとき、その子の祖母にあたる年配の女性が「わー、もう2歳になるのに恥ずかしい!」「そんなこと言ったら恥ずかしいよ!」と大きな声でその子に言ったのだ。あれは相手が子どもだったし、指摘した内容がかわいいものだっただけで、その女性の言動ははっきりと「相手に恥をかかせる」ことを意図したものだったと思う。

 

どうして大人は子どもにだって自尊心があるということを忘れてしまうんだろう?あぁ、こんなふうにしつけられたらひとの目を気にする子になって当然だよなぁと思うと同時に、せめてその女性が同じ口で「個性を伸ばしなさい!」なんて真逆なことをのちのち彼に言い出さないようにと願った。

 

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「恥」という感情は、ひとを「みんなと同じ」に向かわせる機能がある。みんなができている(と本人が思っている)ことが自分にはできない、と思えば情けなくみじめな気持ちになるし、何とかみんなと同じレベルに達しようとする(が、できないこともある)。そして逆にどうやら自分だけこれができる、何だか自分だけみんなと違う、というときも必死でそれを隠そうとするひとがいるが、そのどちらもが「恥」のしわざなのだ。悲しいのは、その「足りないところ」や「突出しているところ」、「ひととは違うところ」こそがそのひとの個性なのだということに、多くのひとが気づかないということだろう。

 

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日本では「〜すると(or〜できないと)恥ずかしいよ、笑われるよ!」と子どもをしつけることが珍しくないけれど、そろそろそういうのやめようよ、と思う。たしかに日本人の団結力や統率力には目を見張るものがあって、それはこの「恥」を使った「みんなと同じ」戦法のおかげだったのかもしれないけれど、だったら「自分らしく」とか「個性を伸ばして」とか「ひとの目なんて気にするな」なんて言っちゃだめでしょう。そんなの完全なダブルメッセージだもの。「自分らしく生きる」というのはつまり自分の軸、自分のモノサシを持って生きるということだけど、ひとからどう思われるか、どう見られるかという他人軸で育ってきた人間には、それが一朝一夕にできるものではないのだから。

 

※「恥」について学ぶにはBrené Brown(ブレネー・ブラウン)のTEDトークや書籍がオススメです。TEDトークのスピーチは抜群のうまさ、おもしろさでスピーチ英語の勉強にもぜひ。

2015年学んだこと、気づいたこと

 

1.  直感と感性を信じる勇気をもつ

 

今年は4月に1ヶ月間フランス-イタリア旅をしてきたことがとても大きな経験となった。「読まない、書かない、考えない」という、普段のわたしなら発狂しそうなルールを自分に課してただ感性と直感に従う旅をして思ったのは、直感とはすなわち魂の声であるということ。そしてそれに従うことは、自分のちっぽけな頭で考えた結果以上のものに出逢う予兆であること。

 

魂の声は、普段よほど気をつけていないとマインドの声(論理的、理由を求める、損得を考える)や感情の声(やたら落ち込んだりテンションがあがったり)に瞬殺されてしまう。その小さな小さな声を聞き分けるための聡明さとそれに従う勇気を、旅という非日常のなかだけではなくこの日々の生活のなかでも持ちたいと思う。

 

2. 大嫌いを認めたら、大好きが出てきた

 

今年の夏は実家において様々なドラマがあった。そのなかでわたしは本当にたくさんのことを学んだのだけれど、ひとつだけ言うとしたらこれ。いままで家族を嫌いなんて思ってはいけないとどこかでブロックしていたらしいわたしは、その反動で家族のことが好きだと手放しで思うこともできなかった。大事な存在だし、ありがたいと思っていて・・・だけどモヤモヤする、というのがわたしにとっての家族だったのだ。

 

けれど、家族にまつわる諸々のドラマのなかで初めて姉と大げんかをしてー縁が切れてもいいと思ったほどーいままで言えなかった本音をぶちまけたことで、逆にわたしはやっとやっと姉が大好きだと思えるようになった。おねえちゃんなんて嫌い、大っ嫌いと思う気持ち、そんなこと家族に対して思っちゃいけないと自分のなかでタブー視してきた気持ちを認めたことで、同時におねえちゃん大好きという気持ちの蓋も同時にパカッと開いたようなのだ。

 

わたしは結局家族にはこうあってほしいと子どものように勝手に期待していたのだろう。理想の親像や理想の姉像を押しつけていた。自分だって理想の娘像や理想の妹像を押し付けられたら嫌なのに!世のなかの多くのひとたちは、たぶんこれらのことを反抗期や思春期に乗り越えるんだろう。それを思えば何をいまさら、と情けない気分にもなるけれど、それでもわたしにとってはとても大きな変化だったし、ここまでこれた自分をやっぱりちゃんと褒めてあげたい。

 

3. 人間は多面的であり、それを責めることは誰もできない

 

自分に、ひとに、世界に誠実でありたいというのがここ数年のわたしのテーマのひとつだった。誠実であるということは、自分にもひとにも世界にも同じ顏を見せるということで、確かにそれができているときはとても生きやすい。なぜなら顏を使い分ける必要がないから。

 

けれど、今年のわたしは自分のなかに自分でも知らなかった側面をたくさん見つけてしまった。ダークな部分、卑怯な部分、ひとには言えないと思ってしまうような部分―。

 

そっか、自分のなかにこんなものがあったんだと気づいたわたしは、同じようにダークな部分を持つひとを責められなくなった。だってきっとそれには彼らなりの理由があってーたとえそれが自分にはどれだけ共感できないものでもー、何より本人たちだってその扱いに四苦八苦している最中なのだろうから。

 

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ということで、2015年はわたしにとって内面で多くの変化があった年だった。外からはわかりにくいし、何もしていないように見えるけれど(自分でもそう思っていたけれど)、いやいや、わたし、結構がんばりました。

 

この1年で得た「内」の学びや気づきを持ちつつ、2016年は「外」の年にしたい。ただ行動する、1秒でも長く「外」にいる、そこで見える景色を楽しむー。

 

壮大な目標をたてるとそこで気持ちよくなって終わってしまいがちなので、これくらいの軽いグリップで2015年を閉じ、新たな年を迎えようと思う。

 

そして今年お世話になったすべてのひと、今年出逢ったすべてのひとに感謝を込めて。これを読んでいるあなたのことです。あなたがいなければ、今年のわたしはいませんでした。

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