洞窟への入り口の前には小さな広場があり、山の上からの景色を一望できる場所には、そんな絶景に背を向けるように洞窟側を向いたピエタ像が置かれていた。
十字架から下ろされたイエスを膝にかかえ、空を見上げて嘆き悲しむ聖母マリア。そしてイエスの身に顏をうずめるマグダラのマリア―。
―悲しい。
止める間もなくみるみるうちにあふれた涙が、ほおをつたってハラハラと落ちた。
―悲しい。
深い深い深い哀しみが足元からやってきて、一瞬のうちに全身を浸す。まるでこの体のどこかにある感情の蓋が大きく開ききったかのようだ。わたしはもう動けない。
―悲しい・・・
―悲しい・・・
―悲しい・・・
―悲しい・・・
―悲しい・・・
―悲しい・・・
―悲しい・・・
この哀しみはいったい誰のものなのだろう?
―悲しい・・・
―悲しい・・・
―悲しい・・・
―悲しい・・・
―悲しい・・・
この涙はいったい誰のものなのだろう?
泣きながら、それでも頭の一部分が妙に冷静に動いていた。
この涙はわたしの涙じゃない。この涙は―。
深い哀しみと絶望の怒りが嵐のように体を突き抜ける。唐突にやってきた確信が胸をつく。
この涙は、すべての女性の涙だ。
ひとを愛したすべての女性の涙だ。
愛するひとを―恋人を、子どもを、大切なひとを、あらがえない力によって失いつづけてきたすべての女性の涙だ。
―どうして生んでは奪われないといけない?
男たちがもっともらしく語る抽象的で大きな何かより、いつもただ目の前の愛する存在を守りたかった女たち。
わたしたちはこれからもこれを続けなければいけないのだろうか?
―どうして?どうしてまだ苦しもうとするのですか?
わたしたちがもう背負ったのに―。
はっと振り返る。
洞窟のなかではミサが行われている。
マグダラのマリアはそこにいる。
☆☆☆☆
神父さまのまるで歌のように節をつけた説教―いや、あれは本当に歌そのものだった―を頭をたれてきく人々。ところどころ、みなそれを同じように復唱する。歌うように。メロディを持って。みなそれぞれ山歩きの格好をしているところが普通の教会に集まるひとびととは違うけれど、その真剣なようすと美しいメロディに心打たれる。
洞窟のなかは薄暗く、ロウソクの灯りとステンドグラスを通して差し込む光が神秘的な空間をいっそうこの世離れした雰囲気にしていた。正面にはイエスの磔刑像、そして足元にひざまずくマグダラのマリア像。ほかにもいくつかのマグダラのマリア像が配置され、通常の教会と同じようにベンチが並んでいる。
ミサの邪魔にならないよう、洞窟のなかのいちばん後ろのベンチにひとり静かに腰をおろした。ここでもわたしは真剣な信徒たちに交じって静かに号泣しているヘンなひとだ。せめて周囲にバレないように目をハンカチで押さえて下を向く。
美しく厳粛なミサが終わり、一斉にひとが立つ。記念写真をとる家族。ゆっくりと洞窟内を見てまわる老夫婦。正面のイエスの磔刑像の下に並び、笑顔で写真を撮るまだ30代とおぼしき夫婦と5人(!)の小さな子どもたちをぼーっと眺めながら、何かがぽっとわたしのなかの感覚をつかまえた。それを、それを言葉に変換するとするなら―。
―あぁ、わたし、子ども欲しいな。
それはなぜか諦念のようだった。あらがってあらがって見ないようにしてきた、全力で逃げてきたものがいま不意打ちでわたしをの右腕を捕まえる。わたしは諦めたようにそちらを向いていう。あぁ、追いついてきたんだね―。
これまでどうしても、子どもを持つということを前向きに考えられずにきた。理由は挙げればキリがない。だから、結婚して、さぁ次のステップとばかりに何の疑問も持たず(・・・と、いうようにわたしには見える)子どもを生んでいくひとたちのことが本当にわからなかった。対立したいわけじゃない。否定したいわけでももちろんない。ただ、心底不思議だった。どうしてだろうと思っていた。どうして彼女たちは自然にそれができて、わたしはできないんだろう。わたしはおかしいの?
けれどそんなわたしも、34歳という年齢のこと、そしてもうずいぶん前から子どもが欲しいと言っていた相手のこと、色々なことを考えたとき「そろそろ」と重い腰をあげる気になっていた。旅に出ると決めた理由のひとつだって、もし子どもができたらこんな気ままなひとり旅なんてしばらくはできないと思ったからだ。
でも、あくまでそれらすべては「頭」で考えた結論だったのだと気づく。
―わたし、いま初めて「心」で子どもが欲しいって思った。
生む性である女性の、深い哀しみに触れたからだろうか。わたしのなかの女性性が、その哀しみの深さと同じくらいに膨大な愛情を見つけた。ほかでもない、この自分のなかに。
そこには世界中の哀しみと、世界中の愛があった。
―どうなっちゃうんだろう、わたし。
フラフラと立ち上がって洞窟のなかを進む。とにかくすべての像を見てみよう。また不思議なことばがわたしの体を通って降りてくるなら、きっとこれから必要なことをわたしに教えてくれる。
ふと振り返って入り口の外に見えるピエタ像を確かめる。
ピエタ(Pietà) 、その意味はたしか、哀しみと、慈悲―。