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ヒト、モノ、カネというけれど

 

経営資源として「ヒト、モノ、カネ(+情報)」とはいうけれど、ずいぶん乱暴なくくりだなぁと常々思っていた。「資本主義」というこの大きなゲームの盤上に乗せてしまえばたしかに「ヒト」は駒のひとつにすぎないけれど、その「ヒト」はひとりひとりが名前のついた誰かの息子や娘であり、何世代にも渡って受け継がれてきた習慣や文化を持ち、喜怒哀楽といった「心」を持つひとなのだ。そのことを知ってか知らずか「あっち(経済がまわっているところ)にもっとヒトが必要だから、こっち(それは大抵経済がまわっていないところ)から連れていこう」とコマのようにつぎはぎしてヒトを動かした結果が、昨年パリで起きたテロの原因のひとつである気がしてならない。

 

☆☆☆☆

 

世界を見ると「オールド資本主義」はあきらかに末期的な状況ーめまいがするような格差、それが生み出す混乱ーだけど、これってかつてヨーロッパで絶対的な存在だった教会が免罪符(※)なんか売り出して宗教改革を呼込んでしまったり、「すべて神がつくりたもうた」と説明する宗教にかわって新しい正義である「科学」が台頭してきた状況、「それまでのルールが変わる」前夜みたいな空気感と似ているんだろうなと思う。いまでも宗教を信じる敬虔なひとびとがいるように、資本主義を信じる敬虔なひとびとはこれからも残るだろうし、力も持ち続けるだろう。けれど、時代はゆっくりと新しいルールに変わってきていて、いつかこの新しいルールが古いルールを凌駕するときがきっとくる。古いパラダイムのなかで育ったわたしたちは、その変化のはざまにいて両側から引っ張られるようでとても苦しいけれど、この大きな渦のなかに生きられるのもラッキー!と思うしかない。そして、クンクンと嗅覚を磨いて新しいルールを探るのだ。

 

ヒト、モノ、カネ、そして情報が「資本主義社会」の大事な資源だったなら、これからの新しい社会は何を資源とするのだろう。せめて人間が一個体の「ヒト」ではなく、縦軸にも横軸にも繋がって生きる「ひと」として認識される社会であるといいなと思う。

 

※免罪符:カトリック教会が善行(献金など)を代償として信徒に与えた一時的罪に対する罰の免除証書。中世末期、教会の財源増収のため乱発された。1517年、聖ピエトロ大聖堂建築のための贖宥 (しょくゆう) に対しルターがこれを批判、宗教改革の発端となった。贖宥状。〜デジタル大辞泉より〜

※つぎの社会がどんなものになるのか、というのは岡田斗司夫氏の著書「評価経済社会」を参考につらつら考えています。


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