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わたしにとって英語は過去に結びつかない言葉なのです、という話

 

最近、英語を使う機会がめっきり減ってしまった。NYから帰って来た当時の自分の英語力を5とすると、いまは2.5-3くらいをウロチョロするくらいに低下している実感がある。どんな能力でも使わなければ衰えるのは当たり前のことだが、「いざとなれば英語づけになって、あれくらいまでは取り戻せるから大丈夫」という、根拠のない自信がますます自分を怠惰にしている。

 

☆☆☆☆

 

数年前、ネイティブの話す英語を聞き取れるようになり、自分でもある程度言いたいことが言えて会話が成り立つようになったとき、わたしはあることに気づいた。夢中で英語で会話をしたあとは、妙にすっきりしているのだ。元気になっている、と言ってもいい。多言語話者は、使う言語によってキャラが変わるというのはよく聞く話だが、それとはまた少し違った効果な気がして不思議に思っていた。

 

その後、心理学や感情について学んでわたしなりに「こういうことだろう」と納得していることがある。幼い頃の周囲の大人の口癖がその子のマインドセット(ものの考え方や捉え方のパターン、信念や思い込み)をつくるが、周囲に日本人しかいない環境で育ったわたしは、マインドセットがもちろんすべて日本語でインストールされているのだ。これはつまり、思考や言動の枠が、すべて日本語でつくられていると言ってもいい。

 

加えて、母国語である日本語には子どもの頃からいまにいたるまでの自分の記憶や感情がことごとく紐づいている。ひとはポジティブな感情を感じたときよりも、ネガティブな感情を感じたときのほうがより強く、より長くひきずってしまう習性があるが(※1)、こうした想い出ー怒られたり悲しい思いをしたりつらかったりの記憶ーも、わたしにとってはすべて日本語に紐づいているのだ。

 

大人になってから英語を習得し、なおかつシリアスな場で英語を使ったことがないわたしには、英語に紐づいているつらい経験がない。いや、正確にいえば、英語を使う環境のなかでつらい思いをした、という経験はあるけど、そのつらい経験も「日本語で」記憶しているのだ。”Hard experience”ではなく、「つらかった経験」として。

 

母国語のおかげで深い思考ができること、周囲のひとと深いコミュニケーションがとれることにわたしはとても感謝しているが、自分の思考や言動の枠をつくり、これまでのすべての感情や記憶と紐づいているこの母国語以外に多少なりとも使える言語があることには、それと同じくらい感謝している。わたしにとって英語は過去に囚われていない言語なのだ。それは明らかにわたしを自由にしてくれる。

 

グルグル考え過ぎて悩んだり、頭のなかで堂々巡りをしているときーもちろんそれらぜんぶ日本語をでしているー、わたしはときどき英語で自分に問いかけてみる。“Well, what would you like to do, Mika? ”(みか、結局、何がしたいの?)と。そして、自分の内側から返ってくる答えはいつも子どものようにシンプルでわたしはもう降参するしかない。難しい単語や言い回しを知らず、深刻な場で英語を使った経験がないからと言ってしまえばそれまでだが、言語がそのひとの思考、ひいては人生に与える影響を思うとそら恐ろしい気持ちにも、へんに愉快な気持ちにもなる。

 

日本語がつくったこの自分のアイデンティティを持ちながら、ときにあの子どものように迷いのないシンプルな声に耳を傾けられたらいいなと、久々に英語のラジオを聞きながら思った。

 

※「ネガティビティ・バイアス」といいます。ひとはネガティブな感情のほうがより強く、より長く印象に残してしまううえに、それを何度も反芻する傾向にあります。

 


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