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「怒り」をめぐるストーリー、そしてそこから始まった人生の転換について

 

幼い頃のわたしは、カッとなって大声を出す父の姿が心底怖く、以来、大声を出す男性がみなとても苦手になってしまった。何か言いたいことがあっても言葉にできない。ぐっと飲み込んでしまう。たとえ相手が自分に対して怒っているわけではなくても、だ。大声を出して誰かに怒りをぶつけているその声を聞くだけで怖くて嫌で仕方がなかった。「感情」について学んだいまでは「あー、きれてるな」と、だいぶ冷静に観察できるようになったのだけれど。

 

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そんなふうに「怒り」を表現しているひとの姿が怖かったからだろうか、わたしは知らず知らずのうちに「怒り」という感情それ自体をいけないもの、避けるべきものとしてタブー視するようになってしまったらしい。自分に対して「怒り」という感情を表現すること、もっといえばそれを感じること自体を禁止してしまったようなところがある。だから、わたしはいまでも「怒り」を感じることがあまりない。他のひとが怒る場面でも、むしろわたしは悲しくなってしまうし、相手に感情をぶつけるというより、自分にその矛先を向けてしまう。

 

「怒り」は感情の蓋、もしくは「二次感情」だと言われる。ひとが怒りを感じるとき、その「怒り」の下には、本当はもっとじんわりしめった感情がくすぶっていて、わたしたちはそれを感じるのがつらいから「怒り」で蓋をするのだと。そのじんわりしめった感情とはつまり、理解してもらえなかった悲しみ、自分の大切な何か―それはマイ・ルールかもしれないし、プライドかもしれないーを踏みにじられた悲しみ、もしくは何らかの恥や罪悪感などだ。

 

感情について学びはじめた当初、わたしはこんなことを思っていた。「怒りが『悲しみの蓋』とか『二次感情』っていうなら、わたしはその下に眠っている悲しみを最初からちゃんとキャッチできてる。そっちのほうがいいんじゃない?」と。だって、そのほうが自分が本当に感じているものを自覚できるし、原因を探ることができる。原因がわかれば、次に同じ反応をしなくてすむ。本当の感情を感じたくないからって怒りで蓋をしてそれを相手に投げるなんて、自分の責任を放棄してるようなものじゃないか、と。

 

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けれど、もう2年程前からだろうか、半年に1回程の割合で自分がめちゃくちゃ怒っている夢を見るようになった。日々のなかで何か怒るようなことがあったわけではない。夢のなかで何に対して怒っているのかもわからない。けれどわたしはとにかく号泣しながら怒っているのだ。朝、目が覚めたときもまだ泣いていて、あぁ、わたし本当は怒ってるんだ、でも何に対して怒っているんだろうとぼんやり思っていた。

 

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そんな「半年に1度、激怒している夢」を見つつも、フツーの生活を送っていたわたしだが、昨年の夏、思うところあって有名なカウンセラーのカウンセリングを受けた(ちなみに心理学を学んだり、自分もコーチングなどをしているので、カウンセリング等を受けることに抵抗がありません。というか、みんなもっと受けてみたらいいのにと思っている)。どうしても解決したい大きな問題を抱えていたわけではない。精神的に参っていたわけでもない。けれど、そのときのわたしは何だか人生が停滞しているような、踊り場から先に進めないような感覚がもどかしくて仕方なく、1度プロの視点からの助言とサポートが欲しいと思っていた。

 

そのときの具体的な内容はここでは書かないけれど、カウンセラーはいくつかの宿題を出してくれた。そのなかのひとつが、自分の感情を思いっきり動かせる何かをしてください、ということ。

 

「あなたはいつも1歩ひいて慎重にまわりの様子を見ているようだから、そんなことが気にならないくらい没頭できる何かをしてみてください。何かありますか?」

 

わたしは「ダンス」と答えた。ダンス、とくに何を習っているわけではないけれど。

 

「ダンス!いいですねー、ダンスは感情を解放するのにぴったりです。あとは、ひとりでカラオケに行って熱唱するとかでもいいですよ」。

 

根がマジメで早く結果を出したいせっかちなわたしは、カウンセラーから出された宿題を粛々とこなした。家でひとりになったときは音楽をかけてただただでたらめに踊った。ひとカラは初めてだったけど、週に2-3回のペースで行った。周りに合わせることなく好きな歌だけ、上手い下手も気にすることなく、ただ歌うだけ。

 

すると、感情が揺さぶられたからだろうか、歌いながら泣けてきた。悲しい歌はもちろん、悲しい歌でさえなくても。しまいには歌えなくなってただただ泣いているときもあった。そんな日は、家でただゆったりとダンスをしていても涙が溢れた。

 

そんなことを2週間ほど続けたある日のこと。昼寝をしていたわたしは、やけに鮮明な夢を見た。見知らぬ家族と、カラオケに来ている夢だった。

 

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その夢のなかでわたしは、なぜかイタリア人の友だちを連れていて、見知らぬ家族ー顏は知らない、でもその家族構成はあきらかにわたしの家族と同じーに、その友だちを紹介しようとしていた。

 

愛想良く向かい入れる見知らぬ家族と、お土産を渡す友だち。ありがとう、と言ってそのお土産を受け取った彼ら。なぜかわたしはそのあと、その家族の母親に呼ばれてひとり別室に行った。

 

「なんかこんなもの貰っても困るのよね、っていうか、何これ。安全なのかしら」

 

友だちが(※すべて夢のなかです)持ってきたイタリアの有名なリキュール、リモンチェッロを手にしたその見知らぬ母親はため息をついた。「それに最近このへんで事件があったんだけど、あの外国人のひと関わってないわよねぇ」

 

夢のなかだもの、全体的に支離滅裂である。支離滅裂だし、そもそもこの家族の顏さえ見覚えがない。

 

が、わたしはこの見知らぬ母親のひとことで血の気がひくほどの怒りを感じた。血の気がひくほどの、そして次には体じゅうが震えるほどの。

 

気づけば夢のなかのわたしは、泣きながらその家族たちに向かって激怒していた。声がかれる程泣き叫んで、何か一生懸命訴えている。

 

悔しくて悲しくて、泣きながら目が覚めた。真夏の昼、さんさんと陽射しが入る部屋のなかで、泣きながら天井を見つめたわたしはこれはチャンスだと思った。その原因はわからないけれど、わたしは心の奥で本当はとても怒っていて、ここ2週間程感情を揺さぶり続けたことで、それが出てきたのだ。

 

そしてその怒りは、自分の実の家族に向けられた怒りだということも感覚としてわかった。

 

ーこの怒りを解放したい。

 

夢うつつのなか、わたしはリビングまでフラフラ歩いた。心理学のワークショップなどで行うワークを、ひとりでしてみようと思った。

◆つづく◆


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