p[\ivWFNg^Cg

アーカイブ

【VOL.3】神さまからのゴーサイン

 

ある日の夕方、サルトルやボーヴォワールも通ったという老舗のカフェ「レ・ドゥ・マゴ」のテラス席で白ワインを飲むというミーハーな野望を叶えたわたしは、オデオン駅近くのホテルに向かってブラブラと歩いていた。

 

今夜のごはんは何にしようか、またモノプリ―素敵なスーパーマーケット―でチーズとワインを買ってホテルの部屋でゆっくり飲もうか、それとも気になっていたあのビストロに行ってみようかとわくわく考えながら歩いていると、行く手に神殿かと見紛うような立派なファサードの建物が見えてきた。

 

これは・・・。

 

地図も見ずに歩いてきたけれど、位置的に、これはたぶんあのサン・シュルピス教会だろう。

 

パリの左岸、サン・ジェルマン・デ・プレにあるサン・シュルピス教会は、ドラクロワのフレスコ画や世界有数のパイプ・オルガンがあることで知られる有名な教会だ。小説・映画ともに大ヒットした「ダヴィンチ・コード」のなかでも“ローズ・ライン”のある場所として重要な舞台になっていたから、なんとなく耳になじみがあるというひとも多いかもしれない。

 

入り口付近にホームレスとおぼしきひと数人がいて近づくことに少し躊躇したけれど、そのまま教会内に入る。

 

後方の巨大なパイプオルガンを見上げつつそのまま内部を前方に進むと、ちょうど祭壇の後方に聖母マリアの礼拝室があった。

 

なんとなくそこのイスに座り、ローソクの灯りに照らされるマリア像を見上げる。

 

「きれい・・・」

 

そのマリア像の美しさに、思わずつぶやいたそのときだ。

 

突然、わたしの両目から涙があふれてきた。

 

あれ?わたし泣いてる。

 

そう自覚した瞬間、涙はもう止まらない嗚咽になった。

 

キリスト教徒でもなければ、マリア像に何の思い入れがあるわけでもない、けれどそこで号泣する謎のアジア人。や、これは完全にヘンなひとだと思われる、止めなければと思うのに、止まらない。

 

「それはね、神さまからのゴーサインなんだよ」。

 

理由はわからない、でも涙があふれてとまらないというときは、神さまが「そっちで合ってるよ」って教えてくれてるんだよ。

 

いつだったか、そんなことを教えてくれたひとがいた。

 

この涙は何のゴーサインなんだろう、何が隠れているんだろうと思いながら、わたしはマリア像を見つめ続けていた。たしかにわたしには過去にも3度ほどこんな瞬間―理由がわからないけど涙が溢れて止まらず、その後、自分のなかで何かが変わるーがあったから、きっとこれもそんな瞬間のひとつになると直感が告げていた。

 

泣きつづけてどれくらい経っただろうか。なぜかわたしは4年前に亡くなった母方の祖母のことを思い出していた。

【vol.2】旅する理由

 

旅って、ある角度からみたら非効率極まりないなとときどき思う。

 

時間もお金もたくさんかけてそんな遠いところ行くより、ワンシーズン分の洋服がほしいよ!

 

と、わたしもある時期、結構本気でそう思っていた。

 

けれど。

 

これだけテクノロジーが発達した世界でも、生身の自分が体験してはじめてわかることはやっぱり山ほど、ある。

 

Google earthで地球の裏側の名前も知らないストリートをつぶさに眺めることはできるけれど、その通りを歩いたときに漂ってくる不思議な(だいたい、日本ではかげないような)香りをこの鼻でかぐことはできない。街は陽気にざわついているのか、それともひっそりと静まっているのかを肌全体で感じとることもできないし、そこを行き交うひとびとがいったいどんな抑揚とリズムの言葉を互いに交わしているのか、旅行者の自分に対してどんな種類の視線をなげかけてくるのか―それともまったくスルーされるのか―はその場に体を運んでみないことには絶対にわからないのだ。

 

だから、それらをいちいちこの目と鼻と耳とからだ全部で確かめたいという欲求を満たすこと、そしていざそこに立ったとき、自分のなかにいったいどんな想いや感情がわき上がるのかをただ知りたいと欲することが、旅をする理由なのだと思う。

 

☆☆☆☆

で、それこそパリの情報なんて、本や雑誌やインターネットや映画や、この街が大好きだというひとが語る言葉でこれまでさんざんインプットされてきたけれど、それでも実際に来てみてはじめて気づいたことがたくさんあった(ワインてこっちで飲むと本当に味が違うんだ!とかね)。

 

何より驚いたのは、自分がこんなに美術館や教会に魅せられたことだ。

 

とくに、教会にはなぜか黙々と、一生懸命足を運んだ。一生懸命。

 

そして、「よくわかんないけど昔からキリスト教とその周辺に興味があった」わたしである。少しのあいだ住んでいたNYでは散歩がてらよく色んな教会を覗いていたし、その後シアトルに行ったときには敬虔なクリスチャンであった知人がいまから教会にいくというので頼み込んで一緒に連れていってもらったり、昨年の夏、ポートランドに行った際にも教会があれば入ってみてもいた。

 

でも、それらアメリカの教会で感じた空気とはまるで違うと思った。

 

わたしがいくばくかは成長したり、ものごとの受け取りかたが変わったからだろうか。

 

ある日の夕方、サン・シュルピス教会に行ったときのことだ。

 

【vol.1】4月8日、パリ

 

「あ、わかった…」

7日間をそこで過ごしたら、
南仏に向けて出発するつもりでいた、パリ。

けれどこの街はわたしの想像を遥かに越えて楽しすぎて
―それはもちろん、旅行者目線でおいしい部分だけをきりとった
『パリ』だとわかってはいるけれど―

滞在8日目にしてようやくチホコさんに会えたときのことだった。

わたしはなぜ今回こうしてフランスに来たのか、

自分でもよくわからないけれど、
ここ最近ずっと、フランスに「行かなきゃいけない」とすら
感じていた理由がわかった気がした。

「わたし、今回の旅はマリアさまに会いにきたんだ」。

理屈じゃない。

『頭』ではない部分、自分の体のもっともっと下のほう、
『肚』や『胎』でわかった、と思った瞬間だった。

☆☆☆☆

最初に断っておくと、わたしはキリスト教徒ではない。

とくに信心深いタイプでも、たぶんない。

実家には仏壇も神棚もあり、
クリスマスにはケーキを食べるような「日本人あるある」の家庭で育ったし、

イエスとかブッダとかモハメッドとか、
すべてが八百万の神様のなかのひとりくらいに思っているフシがある(何かいろんな方面から猛烈に怒られそうだけど)。

それでもなぜか、昔からキリスト教には親近感のようなものを持っていた。

教義に心打たれたとか、絶対神がどうとか、
そういうところに近しさを感じているわけではまったくない。

信仰があついひとについては、
「あれだけ無条件に信じられるものがあるってしあわせだろうな」となかば羨ましく思ういっぽうで―揺るぎない拠り所があるってしあわせだもんね―、

その盲目ぶりを目の当たりにすると「おめでたいひとたちだな」とひそかに思わずにはいられない。

なのに。

なぜかわたしは10代の、それもローティーンの頃から、
「キリスト教」や「イエス・キリスト」や、
その周辺の諸々のことについて

いつも興味と関心と妙な親近感を持って遠巻きに眺めてきた。