翌朝、レストランで朝食をすませたわたしは、回廊のなかにある緑の庭のイスに座りコーヒーを飲んでいた。春とはいえ朝晩は寒いくらいだ。水色のたっぷりしたセーターの袖を限界までのばしてかじかみ始めた手の寒さをしのぐ。
今日はついにサント・ボームに行くんだ。
朝からそわそわしていたわたしは、そのまま部屋には戻らずに教会とホテルのあいだにあるツーリストインフォメーションが開く時間を待っていた。回廊ならわたしは何時間でもいられる。大きく深呼吸して回廊部分にある窓々に目をやると、どこからか白いハトがやってきてとまった。
白いハトは、キリスト教の三位一体の聖霊をあらわすシンボルだ。
―幸先がいいな。
やっと9時になる。コーヒーを飲み干し、ツーリストインフォメーションへ向かった。
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「サント・ボームの洞窟に行きたいんですが」
始業時間と同時にやってきてそんなことを聞くわたしに、デスクにいた白髪の上品なマダムはゆっくりと目をあげた。
「車はありますか?」
「いえ、ないんです」
「そうですか…」
チェーンのついたメガネを書け直し、少し考えるようにしながら地図を取り出し、こちらに向ける。たしかにここを訪れるひとのほとんどは、自家用車かレンタカーでくるだろう。こうして改めてマダムの出してくれた地域の地図を目にすると、そりゃそうだという気になってくる。小さな小さな南仏の街、そして向かうのは山の上。
「バスで行けないこともないけれど、いったんこの街までいって、そこからタクシーに乗らなければいけません。そこから結局サント・ボームまでは○ユーロかかってしまうから、少し高くなるけどここからタクシーで行ったほうがいいと思いますよ」
地図に印をつけながら、ゆっくり丁寧に説明してくれる。
「山の下までタクシーで行って、そこからは自力で登る必要があります。ふもとから洞窟まで45分から1時間くらいですね。毎日ミサがあるから、急いで出ればそれに間に合うかもしれません」
英語が話せるドライバーの電話番号を書いてあげましょう、ホテルのフロントで呼んでもらうといいですよ、とマダム。
「ありがとうございます!」
笑顔でお礼をいってツーリストインフォメーションを後にする。たくさんのひとにありがとう、という旅だなと思いながら。
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“Je suis Schumacher.” (ぼくはシューマッハだよ)
1時間後、わたしは軽快にオヤジギャグを飛ばすポールさんの隣に座っていた。
くねくねと曲がった山道を猛スピードで登るタクシードライバー、ポールさんに、んなわけなかろうと突っ込みのひとつも入れたいがフランス語が出てこずひきつった笑いを返すしかない。
ホテルのフロントにツーリストインフォメーションのマダムからもらったタクシードライバーの電話番号を渡し、やってきたのがポールさんだった。値段交渉をしようとするも・・・あれ?
「あの、英語話されますか?」
「ノン(堂々たる笑顔で)」
英語の話せるドライバーって話だったのでは・・・と思うも、もめている時間がない。それにここはフランスだもん、英語でどうにかしようとするわたしのほうが悪いんだよねと自分に言い聞かせつつ助手席に乗り込む(なぜか後部座席ではなく助手席に乗せられた)。
―このポール氏が悪いひとだったら一巻の終わりだわ。
ホテルが呼んでくれたタクシードライバーとはいえ、言葉もほぼ通じない見知らぬおじさんと車に乗り込むのは緊張するではないか。
・・・という心配もどこへやら、彼はフランス語で、わたしはカタコト以前のフランス語と英語で、サント・ボームのふもとまでの40分ほどのあいだおしゃべりしながらいたってすこやかに過ごしたのだった。話すことがなくなれば、外の景色を眺めればいい。頻繁にあらわれるぶどう畑、誰かさんたちの別荘、大きなゴルフ場―。
「あ、水を買ってくるの忘れちゃった」
ふもとに水を買えるところがある?と聞くと、身振り手振りで「後ろにつんであるからあげるよ」というポールさん。
すごくいいひとなのだった。
すこーしだけ疑ってごめんね、と心のなかで謝る。
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「じゃあ、3時間後にまたここで」
そう言って、ポールさんに手を振った。彼は1度街に戻り、わたしをまた迎えに来てくれるという。お金はいま半分払っておこうか?というと帰りにまとめてでいいよ、と彼。
いいひとなのだった。
―最初の値段交渉で、値切って悪かったな。
目の前にひろがるサント・ボーム山塊は、覚悟していた以上に「山」風情だった。ひとりで登れるものだろうかと、早くも不安になる。ふもとには小さな食堂兼お土産やさんと、修道院とおぼしき建物がある以外は広い芝生のエリア、背の低い木々、畑が延々とひろがっていた。
ポールさんからもらった水をひとくち飲んで、畑のなかの道を進む。まずは山の入り口まで行き着かなければならない。